人形佐七捕物帳 巻七 [#地から2字上げ]横溝正史   目次  恩愛の凧《たこ》  ふたり市子  神隠しにあった女  春色|眉《まゆ》かくし  幽霊の見せ物  地獄の花嫁     恩愛の凧《たこ》  凧《たこ》を持った怪しい怪人   ——あいつはたしかに入れ墨者 「ええ、親分、あねさんも、明けましておめでとうございます。旧年中はいろいろと、おせわになりました。けちなやつでございますが、ことしもどうぞお見捨てなく、よろしくお引きまわしのほど、お願い申しあげます」 「はいはい、これはこれは、親分さんもあねさんもおそろいで。まことにけっこうなお正月だすな。日はうららかと風おだやかに、これぞ太平のご瑞兆《ずいちょう》。兄い同様、この豆六もどうぞよろしゅう、お願い申し上げまっさ」  と、まかりでましたは、おなじみのきんちゃくの辰五郎《たつごろう》にうらなりの豆六、さすがにけさはよたもとばさず、神妙にひざっ小僧をそろえると、ゆうべ夜っぴて寝ずに考えたという、とっときの御慶《ごけい》を、がらにもなく、しかつめらしく申し述べたが、にんまりわらってこれを受けたのは、いわずとしれた人形佐七だ。 「おお、これは辰に豆六か。いや、おめでとう。まあ、そうあらたまったあいさつをされちゃ、この佐七もいたみいるが、ことしもひとつ、みんな元気ではたらこうぜ。お粂《くめ》、おまえからもなんとか、いってやんねえな」 「あいよ、辰つぁんも、豆さんもおめでとう。こんながさつなあたしだが、まあ、なにぶんよろしくお願いしますよ」 「いや、めでたい、めでたい、去年あたりゃ、ずいぶんきわどい橋もわたったが、みんなこうして、達者に年がこせたのがなによりだ。これというのも、神仏のお加護、さあ、みんなそろって、お礼を申し上げようじゃねえか」  と、これより四人、ずらりと神だなのまえにならんで、ポンポンと拍手《かしわで》をうって、去年のお礼やらことしのお願い。  ついでに筆者よりも、読者諸君にたいして永当《えいとう》永当のごひいきをお願いするしだいだが、さてこれがすむと、いよいよ四人そろって、お屠蘇《とそ》ということになる。  まことにけっこうなもので、元日の朝ばかりは、尊いも卑しいも、富者も貧者もない。  なんとなく気分あらたに、うちくつろいでさわやかなものだが、ましてや、この四人、きってもきれぬ親分子分のむつまじさ。  なにはなくとも、お粂の心尽くしの重の物かなにかで、めでたく新年のお祝いをすませると、佐七はなにをおいても、八丁堀《はっちょうぼり》のだんな衆のところへ年始まわり。  また、きんちゃくの辰五郎とうらなりの豆六は、親分の名代で、町方のお年始へとでかけたが、さて、あらかた回礼をすましたふたりが、ぶらりぶらりとやってきたのは、丸の内、桜田門外のお濠端《ほりばた》だ。 「こう、豆六、みや、豪気なものじゃねえか。いくらおめえがお国自慢でも、このありさまにゃかぶとをぬがざあなるめえよ。天下の諸侯から旗本衆《はたもとしゅう》を、一堂にあつめてのきょうのお祝儀。なんと威勢のいいもんじゃねえか」  と、れいによって辰五郎は、お江戸自慢のとくいの鼻を、ヒクヒクとうごめかしはじめたが、さすが口の達者な豆六も、きょうばかりは返すことばもない。 「ほんまやなあ。たいしたもんやなあ。さすが公方《くぼう》さまのおひざもとや、えらいもんやなあ」  と、はじめてみるお江戸の春に、ただもう、感嘆するばかりだ。  むりもない、そのじぶんの丸の内のお正月といえば、いやもうたいした威勢だったそうで。  まずこの朝は、いつもなら、明け六つ(六時)に打つお城太鼓を、寅《とら》の半刻《はんとき》(五時)より打ちはじめ、これを明け六つの鐘まで打ちつづける。  その音がお城の松から、お濠《ほり》までひびきわたって、じつにもって勇ましかったもの。  すると、ご老中、若年寄のご登城になる。  供の者はいずれもきざみ拍子というやつで、ハタハタと早足に歩かれる。  つづいてご登城されるのがご三家はじめ、十八松平のかたがた、あとにご譜代、外様《とざま》の大名諸侯が、ハオー、ハオーと、掛け声もいさましく、あとからあとからひきもきらず、ご三家はじめ三位のかたがたは、衣冠で轅《ながえ》に乗っているが、その他の諸侯もきょうを晴れと、装いをこらした供ぞろえだから、その美々しいこと、威勢のいいことは目をうばうばかり。  それをまた、見物しようと町人どもが、集まってくるので、丸の内いったいつめもたたぬにぎわいで。  さすが口の達者な豆六も、この豪気な初春風景には、とくいの悪口もすっかり封じられたかたちで、ただもう、えらいもんやなあ、たいしたもんやなあを連発するばかり。  そのうちに諸侯ご退出ということになるが、これがまたたいへんな混雑で。  だが、それがおわると、見物もおいおい散ってしまって、あたりはだんだん静かになる。きんちゃくの辰はべつに珍しいことでもないから、ソロソロたいくつしはじめたのか、なまあくびをかみころしながら、 「こうこう、豆六、おめえいつまで、こんなとこにがんばっている気だえ。大名衆が退出してしまえば、あとはお旗本《はたもと》だが、これはたいして威勢のいいもんでもねえ。いつまでこんなとこに立っていてもきりがねえから、ソロソロ出かけるとしようじゃねえか」  と、そでをひかれて豆六は、夢からさめたように目をパチクリさせながら、 「あ、これはえらいすんまへん。あんまりみごとなもんやさかい、つい夢中になってしもた。おかげで、すっかり、お屠蘇《とそ》の酔いがさめてしもたがな。ハークショイと。そんなら兄い、ソロソロいきまほか」  と、いきかけたふたりが、ふとかたわらをみると、いつのまにやってきたのか、お菰《こも》がふたり、お濠端《ほりばた》の土手のうえの、松の根っ子にござを敷いてやすんでいる。  いや、そんなところへ、ござを敷いてすわっているから、お菰にみえたまでで、みたところ、べつにそでごいをするふぜいもないから、これもやっぱり丸の内のにぎわいを見物にきた田舎者どうしかもしれなかったが、それにしても、かおかたちから服装まで、どうやらうさんくさいところがある。  ひとりは年ごろ四十二、三か、月代《さかやき》はのび、顔じゅう、くまのようなひげだらけ。  おまけに、その右ほおには、大きなやけどのあとがあろうというすごみな男だ。  目つきのすごさからいっても、ひと癖もふた癖もありそうなつら魂。継ぎはぎだらけの着物をきているところは、非人からおつりのきそうなかっこうだが、非人こじきとしても、こいつはただのねずみではない。  もうひとりは、これより五つ六つ年若の、これまた衣類こそそまつだが、どこか小生意気なところのある男。ところが、ここに妙なのは、こいつがひとつの凧《たこ》を持っている。  もっとも、正月だから、凧はめずらしくないかもしれぬが、場所が場所、ひとがひと、なんとなくいわくありげにみたはひが目か。  きんちゃくの辰と豆六は、なにげなくズイとそのまえを通りすぎたが、 「おい、豆六、おめえ、いまのふたりを見たか」 「ああ、見た、見た、なんやしらん、妙にすごみのある男やおまへんか」 「そうよ。おめえ気がついたかどうかしらぬが、あの年上のすごい男な。あいつはたしかに入れ墨者だぜ。おいらあ、いまちらりと通りがかりにみたんだが、右の手首に墨のはいったあとがあったぜ」 「あ、さよか。やっぱり兄いや、目がはよおまんな」 「それに、あの年下のほうだって、ただのねずみじゃねえぜ。おいらの顔をみると、きゅうに下をむきやがった。どこかで、みたような顔だとおもうんだが、どうも、おもいだせねえ」 「それにしても、あいつら、あんなところでなにしてまんねんやろ。凧《たこ》を持ったりして、なんやおかしなそぶりやおまへんか」  と、さあこうなると、さすがは佐七のお仕込みだけあって、そのままいき過ぎてしまう気にはなれない。ふたりはたがいに目くばせすると、ほどよい松の木陰へ身をかくし、じっと怪しのふたりづれのほうをうかがっている。  たもとに舞い込む舞鶴凧《まいづるだこ》   ——かごの中からみていた女  そんなことと知るやしらずや、こちらはくだんの怪しいふたりづれだ。ござのうえにすわったまま、じっとみつめているのは桜田御門。  諸侯はすでに退出して、いましもボツボツさがってくるのは、いずれもお目見得《めみえ》以上の旗本たち、なかにはかごでかえるのもある。  なかには徒歩《かち》でいくのもある。  めいめいひとりふたりの供を召しつれて、おもいおもいに散っていくが、そのたびに怪しのふたりづれは顔見合わせて、あれでもない、これでもないといった面持ち。  と、そのとき、御門のなかからあらわれたは、年ごろ十七、八の、水のたれそうな若侍だ。前髪を落としてまだ日も浅いとみえ、そり跡のあおい月代《さかやき》は春がすみのようににおやかに、目もとの涼しさ、口もとのりりしさ。  それこそ、堺町《さかいまち》の舞台でも、なかなか見にくいほどのいい男ぶり。  それをみると、くだんの怪しいふたりづれの年若なほうが、いきなりぐいと、連れのそでをひっぱった。 「ふうむ」  と、大きくうなずいたはやけどの男。  鋭い眼光がいよいよ熱をまし、まるで食いいるように、若侍のかおかたちから、足のつまさきにいたるまで、見上げ、見おろし、まるで、なめまわすような目つきなのだ。 「こう、豆六、ちょっと見ねえ。あの目つきは、ただごとじゃねえぜ」 「けったいやなあ。兄い、ほんならあいつら、あのお侍を知ってんねんやろか」 「さあ、なんともいえねえが、いいからもうすこし様子をみていようよ。こいつなんだか、妙な雲行きになってきやアがったぜ」  と、なおも、様子をうかがっていると、そんなこととは夢にもしらぬくだんの若侍、若党と中間《ちゅうげん》をお供につれて、すたすたと、怪しいふたりづれのまえまできかかったが、そのときだ。  年若のほうが持っていた凧《たこ》が、にわかにさっと風にあおられ、ころころと路上をころがっていったかとおもうと、いきなり、若侍のそでにきりきりとからみついたから、さあたいへん。 「おのれ、無礼者」  お供の若党が腰のものを抜く手もみせず、プッツリ凧の糸を切った。 「あ、これは、どうぞごめんくださいまし。粗忽《そこつ》でございます。あやまちでございます。つい、風にあおられて……けっして意趣あって、いたしたことではございませぬ」  若党のけんまくにおどろいた凧の男は、ござのうえに、額をこすりつけてあやまっている。 「いうな、いうな。これがあやまちですむとおもうか。粗忽ですむとおもいおるか。晴れのご登城のおかえりに、不浄の凧を投げつけられたとあっては、お供についたこの専蔵が、ご主人にたいして申しわけない。それ、松助」 「おっと、合点だ」  と、中間も引っ込んではいない。 「みれば非人こじきのぶんざいで、よくもわれらのだいじな若殿に、けがらわしいものを投げつけやがった。おのれ、どうしてくれよう」  と、左右からかさにかかって、つかみかかろうとするのを、 「これよ、専蔵、控えおろう。松助も待ったがよいぞ」  と、うしろから声をかけたのは、くだんの若侍。  その声のさわやかさ。りりしさ。やけどの男はピクリとまゆをふるわせると、わきめもふらずに、そのおもてを凝視している。 「それじゃと申して、若殿さま」 「これ、控えろと申すに。初春そうそう、愚にもつかぬ腕だてはにがにがしい。なにも風のいたずらじゃ。そこのご仁の知られたことではない」 「じゃと申して、晴れの衣装に、それ、そのようなけがらわしいものを投げつけられて……」 「専蔵、そなたはこれを、けがらわしと申しやるか。拙者はそうはおもわぬぞ。これみよ、この凧の紋所、こりゃ舞いづるじゃぞ。元旦そうそう、つるがたもとに舞いこむとは、これほど、縁起のよいことがまたとあろうか。これ、そこなご仁」 「はっ」  と答えて、ござのうえに手をつかえた、やけどの男のおもてに、なにかしら、はげしい感動のいろがほとばしった。 「この凧はそなたのものか」 「は、さようでございます」 「みればなかなかみごとな細工。べにがら骨のしなやかさ、また、この舞いづるのみごとさ。おそらく名人の作とおもうがどうじゃ」 「恐れながら、お目ちがいでございます。その凧はなかなかそのようなりっぱなものではございませぬ。わたくしめが手なぐさみに、作ったものでございます」 「なに、そのほうが作じゃと?」 「はっ」 「それにちがいないか」 「なにゆえ、いつわりを申しましょう」 「ふうむ」  若侍は、じっと、あいての顔を凝視していたが、 「なにやら子細ありそうな」 「え?」 「いや、なんでもない。ときに、そこのご仁、もしこの凧がそなたの作といたしたら、拙者ちと無心のすじがある」 「は、無心のすじとおっしゃいますと?」 「この凧をもらいうけたい」 「え、なんとおっしゃいます」  やけどの男はおもわずひざをすすめた。 「さればさ、せっかく拙者のふところに舞い込んだこの舞いづる、この福運をのがしとうはない。のう、所望じゃ。なんとこの凧、拙者にゆずってはくださらぬか」 「もったいないことをおっしゃっいます。ご無礼をおゆるしくださるばかりか、そのようなお手厚いおことばをいただいては、わたくしほとほと痛みいります。なんのそのようなそまつな凧、お気に召しましたら、ご随意にお持ちかえりくだされませ」 「おお、それでは譲ってくださるか。かたじけない。しかし、ただもらってまいるわけにはいかぬが、いかほどまいらせたらよいか」 「いえ、もうそれには及びません。あなたさまのようなおかたに、もらっていただければ凧もしあわせ、身の冥加《みょうが》、どうぞご遠慮なく、お持ちかえりくだされませい」 「と申して、むざむざこのまま……」 「いえ、そのご心配にはおよびませぬ。だが、もしそれでお心がすみませぬなら、金子よりも、なにかあなたさまのおはだにおつけになったものをひと品、ちょうだいいたしとうございます」 「おお、さようか」  若侍はじっと、あいての顔をみつめていたが、やがて腰の印籠《いんろう》をとると、それをやけどの男にあたえたから、おどろいたのはきんちゃくの辰と豆六だ。 「豆六、みや、あんちくしょう、うめえことをしやアがったぜ。えびでたいをつるとはあのことだ。どう安くみたとこで、あの印籠は五両や十両はするしろもの。それをやるやつもやるやつなら、おい、見ねえ、あいつ、平気でもらっているぜ」 「ほんまにいな。こんなことやったら、わても凧をうんと仕入れてきたらよかったなあ」  と、大阪者の豆六は、さっそくお里をだしたものだが、こちらはくだんの若侍、凧と印籠を交換すると、そのまま供をつれてかえっていく。  やけどの男はしばらく、感慨ふかげな面持ちで、そのうしろ姿を見送っていたが、これまた連れの男をうながして、こそこそ、その場を立ち去った。  その様子から察すると、ふたりがさっきからそこにがんばっていたのは、どうやらあの若侍を待っていたらしい。  どう考えても怪しいこの仕儀、きんちゃくの辰はしばらく小首をかしげていたが、やがて豆六をひきよせて、なにやらボソボソ耳にささやく。 「はあ、はあ、なるほど。そんならわてが、あのふたりづれのあとをつけていきまんのンか」 「そうよ。正月そうそう大儀だが、まあひとつ当たってみてくれ」 「そして、兄いは」 「おれか。おれゃ、あの若侍をつけてみる」 「よっしゃ。なあに、細工は粒々や。きっと首尾よく、あのふたりづれの身もとを洗ってお目にかけまっさ」  と、そこでわかれわかれになった辰と豆六が、めいめい尾行をはじめたところまでは上できだったが、じょうずの手から水のたとえ、ましてやあまりじょうずでもない辰五郎のことだから、そこに手抜かりがあったのはぜひもない。  その手抜かりとはほかでもない。  こうして一同が四方にちった直後のことだ。  小半町ほどはなれた土手ぎわに、さっきからおろしてあった一丁の辻かごから、たれをひらいてブラリとあらわれた女がある。  三十五、六のうばざくらながらも、小股《こまた》の切れあがったいい女。これがあたりをみまわし、にっと伝法にわらうと、 「新さん、新さん」  と、むこうに立っている男をよんだ。呼ばれてちかづいてきたのは、まだ年若い小ばくちでもうちそうな男。 「お仙《せん》さん、どうだえ、当たりはついたかえ」 「ああ、ついたとも、ついたとも、上首尾だよ。それじゃおまえさん、さっきもいったとおり、あのふたりづれのほうをつけておくれ。そしてね、あたしがいったとおりにするんだよ」 「おっと、合点だ。しかし、お仙さん、おまえさんはこれからどちらへ」 「わかってるじゃないか。あたしゃ、あの若侍のほうをつけていくんだよ。さあ、大急ぎでかご屋を呼んでおくれ」  と、お仙はいかにもうれしげに息をはずませている。それをみると新さんという男、ちょっと気になるいろをみせ、 「お仙さん、おまえ豪気に、気をたかぶらせているが、まさかあの若侍に、変な気をおこしたんじゃあるまいね」 「バカをおいいよ。としをごらんな。親子ほどもちがうじゃないか」 「そんなことにかまったおまえさんかえ。おいらすこし心配だぜ。だって、あいては、あんなにいい男だもの」 「ほっほっほ、やきもちもいいかげんにして、ほら、早くいかないと見失っちまうよ」 「おっと、合点だ。じゃ、ついでにかご屋を呼んでくる」  と、新さんが立ち去るといれちがいに、やってきたのはふたりのかご屋。それをいそがせ、お仙という奇怪な女も若侍のあとをつけだした。  お礼のお酒の中に毒   ——やけどの男は風をくらって——  そんなこととはもとよりしらぬ、こちらはうらなりの豆六だ。  根気よく怪しのふたりづれをつけて、やってきたのは鮫《さめ》ガ橋《はし》の裏長屋。  その長屋の一軒へふたりがずいとはいったから、しめたと心にうなずいたのは豆六だ。  みまわすと、さいわい、かどののり屋のまえに、梅干しばばあが立ってお天気をみている。  豆六はそのほうへちかづき、 「ちょっとお尋ねいたしますが、この路地の突きあたりは、たしか源助さんのお宅やったとおもいますが、ちがいまっか」  と、でたらめの名でかまをかけてみる。豆六もちかごろではなかなかどうして、探索にも腕があがった。はたして、ばあさんはふかくも怪しまず、 「源助さん? ちがいますよ。あすこは介十郎《すけじゅうろう》さんのお宅だあね」 「おや、さよか。こうっと、介十郎さんちゅうたら、そやそや、あの顔にやけどのあるおひとやおまへんか」 「またちがったよ。そのひとなら、ちかごろ介十郎さんとこへ身を寄せているお客人でさあね。介十郎さんというのは、もっと小意気なひとですよ。なに商売するひとかしらないけどね」 「ああ、さよか。へえ、おおきに」  あまりくどく尋ねて、怪しまれてもつまらないと、いいかげんにお茶をにごした豆六は、そのままばあさんと別れたが、これだけでもどうやら来ただけのかいはあった。  まずだいいちに、あの若いほうは介十郎といい、そして、顔にやけどのある男は、ちかごろそこへ身を寄せている寄食人《かかりうど》——と、これだけのことを頭にとめると、さて、これからどうしたものだろう。  もっと様子を見ていたものだろうか、それとも、ここらが切りあげどきかと、とつおいつ思案しているところへ、むこうから急ぎあしにやってきた男とバッタリ会った。 「もし、ちょっとお尋ねいたします。このへんに、顔にひどいやけどのあるかたが、お住まいのはずですが、どちらかご存じありませんか」  と、そう尋ねたのは、さっきの新さんという男だが、豆六はむろん知らない。  みると、新さん、どこで調達してきたのか、酒だるをさげているのである。 「へえ、そのおかたやったら、この路地の突きあたりだす」 「おや、そうですか。これはどうもありがとう」  おじぎをしていく新さんのうしろすがたを見送って、豆六ははてなと首をかしげた。  どうもおかしい。  あの男、いったい何者だろう。なんとなく気にかかる。  そこで、くるりと足をかえした豆六は、みえがくれにその男のあとをつけると、突きあたりから二、三軒てまえの家の軒下にピタリとこうもりのようにすいついた。そんなこととは気づかぬ新さん。おしえられた家のまえに立ち、 「ちょっとお尋ねいたします」  とおとなうと、おおと答えて顔を出したのは、凧《たこ》をとばした介十郎だ。 「おお、やっぱりあなただ。よかった、よかった。見失ったかとおもって、どんなに心配したかしれやしません」  と、汗をふいている新さんの顔をみて、介十郎はふしぎそうに、 「そういうおまえさんは、いったいだれだえ。どこから来なすった」 「へえへえ。わたくしはさるお侍に頼まれましたので。そのかたのおっしゃるには、なんでもさっき凧をいただいたお礼に、この酒を差し上げてくれと、こういうわけで、わたくしは桜田御門のそばから、あなたさまのおあとをつけてまいったのでございます」  これをきいて、はてなと小首をかしげたのは、介十郎のみならず、豆六もなんとなくふにおちなかった。 「いかにも凧を差し上げたのはあっしだが、お礼はあのときにちょうだいした。なにもその酒をいただくすじはねえが」 「いえもう、わたくしはただ使いのものゆえ、詳しいことは存じません。それでは、たしかにお酒はここへおきますから、どうぞお納めなすってくださいまし」  と、新さんという男、上がりがまちに酒をおくと、あたふたと逃げるように立ち去ったが、その目つきが尋常でないから、豆六はいよいよ心に怪しさがきざしてくる。  ひとつあいつをつけてやろうか、いや、待て、もうすこし様子をみていようと、ソロソロ軒下からはいだすと、こんどは介十郎宅の裏口へまわってきき耳を立てる。  そんなこととは知らず、家のなかでは、 「兄い、さっきのお侍から、酒をとどけてきたが、おめえ飲むかえ」  と、こういっているのは、介十郎らしい。 「いや、せっかくだがおれはよそう。おれは生涯酒は断っているんだから、おめえ遠慮なく飲むがよかろう」 「そうかえ。じゃひとつごちそうになろうか」  と、それからごとごと茶碗を出す音。  あとはしばらく無言で、どうやら介十郎ひとり茶わん酒をあおっているようすに、豆六もつまらなくなり、ここらでひとつ引きあげようかと、裏口を離れかけたときである。  だしぬけに、家のなかから、どすんばたんという物音、つづいてウームという苦しげなうめき声。  はっとした豆六がおもわず息をつめて聞いていると、 「おっ、ど、どうした、介。うわっ、こ、こりゃ血……」  と、のけぞるような声で、 「介、しっかりしろ、やい、気をたしかに持ってくれ。そ、それじゃいまの酒のなかに毒」  はっとおどろいた豆六が、急いでなかへとび込もうとしたひょうしに、どぶ板を踏みぬいたからたまらない。  がらがらどすんと、ものすごい音をたててひっくりかえった。  それをきくと、家のなかではにわかにしいんと鳴りを静めたが、やがてだれやらバタバタと表のほうへ逃げていく様子。豆六がやっとどぶからはいあがって、裏口からとびこんだときには、やけどの男は影もかたちもなく、家のなかには介十郎が、血へどを吐いて、はや冷たくなりかけていた。  島抜けの吉五郎   ——首筋に権現さまの彫り物 「おお、それじゃなにかえ。その酒をもってきた男てえのが、たしかに桜田御門外のお侍に頼まれて、その酒を持ってきたといったんだな」 「へえ、さいだす、さいだす。たしかにこの耳で聞きましたさかいに、まちがいはおまへん」 「ふむ」  と、腕こまぬいた人形佐七だ。  あれから小半刻《こはんとき》ほどのちのこと、宙をとんでかえってきた豆六の口から、一部始終の話をきいた佐七は、なにかおもいあたる節もありげに、美しいまゆをひそめて考えこんでいる。 「それじゃ、なんだな。そのお侍のほうは、辰のやつがつけていったというんだな」 「へえ、さよで。兄い、なにしてんねんやろな。もうソロソロかえるじぶんやが。それにしても、親分、鮫ガ橋へはいかんでもよろしのんかいな」 「まあ、よそう、介十郎というやつの息の根が絶えてしまっちゃ、いまさらじたばたしてもはじまらねえ。あとは自身番のおやじが、なんとか始末をつけてくれるだろうよ」 「しかし、あのやけどの男は?」 「それよ、豆六、じつはその男についちゃ、おれにいささか心当たりがあるのよ。しかし、その話は、辰の野郎がかえってきてからすることにしようよ」  いってるところへ、ふらりとかえってきたのは辰五郎。  このほうは、まさかこんな大事件になっているとはしらぬから、鼻歌まじりにしごくのんきに備えていたが、佐七の口から、豆六の話をきかされると、すっかり肝をつぶして、 「え、なんだって? それじゃあのお侍が毒酒で人をあやめたって? ぶるる、めっそうな。あのおかたにかぎて、そんなべらぼうなことがあってたまるもんですか」  と、のっけからたいした意気込みだ。 「辰、おめえいやにその侍の肩をもつようだが、してして、あいてはどういうご仁だえ」 「へえ、それがでさ。まあ聞いておくんなさいよ。豆六に別れて、あれからずっと若侍のあとをつけたとおおもいなせえ。すると、若侍がはいったのは、麻布|三河台《みかわだい》の田宮さまというお屋敷でさ。そこで近所できいてみると、そのお侍は田宮さまのご嫡男で縫《ぬい》之助さまとおっしゃるんで、年は十八だが、これがもう武芸十八番は申すにおよばず、学問のほうもたいしたもんだそうで。それでいて、すこしもいばったところはなく、だいいち、ただひとりの母には孝行、しもじもにはやさしく、それはそれはけっこうな若殿とやらで、近所でも田宮さまの若殿といやア娘っ子の目のいろが変わるという騒ぎ。昨年、先殿さまがおなくなりあそばしてからは、すぐ跡目相続して、なんでも近く、大目付|跡部下総守《あとべしもうさのかみ》さまのお嬢さまと、ご婚礼なさるというはなしでございますぜ」 「ふうむ。たいした能書きだな」 「そうですとも。だから、そんなけっこうな若殿が、毒酒で人を殺そうなんて、おおべらぼうな話があるもんですかい。豆六なんかのいうことを、いちいち取りあげてちゃお話になりませんや」 「おや、えらいけったいなことをいやはりまんな。わてはただ、聞いたことをありのまんまにお話ししただけだっせ。へん、くそおもしろくもない」 「だからよ、てめえの耳は腐っているんだ」 「こら、おもろい、わての耳が腐っているか、腐ってえへんか、そんならここで調べてもらお」 「これこれ、よさねえか。新年そうそうみっともねえ。それより、辰、豆六もききねえ。おらあじつは、やけどの男というのに、心当たりがあるんだ」 「そう、そう、その話きかしてもらおとおもてたとこや。いったい、あれは何者だす」 「まあ、聞きねえ。きょう八丁堀の神崎《かんざき》のだんなへお伺いしたとおもいねえ。すると、だんなのおっしゃるにゃ、新年そうそう大儀だが、ひとつ大物があるというお話だ。聞いてみると、去年の暮れ、佐渡を破った島抜けの重罪人が、江戸へはいりこんだらしいから、できるだけはやくあげろというご命令よ」 「へえ、なるほど」 「さて、その島抜けだが、これが権現の吉五郎という、そのむかし江戸で鳴らした大悪党だそうだ。なんでも、音羽のこのしろ親分のわけえじぶんに、御用になって、すでに首になるところを、そいつめ、りこうなやつじゃねえか。首筋に東照大権現という入れ墨をしてやアがる。これには役人もおどろいたそうだ。いかにあいてが悪人でも、権現さまのお名まえに刃《やいば》はあてられねえ。それでやむなく、死一等を減じて、島送りということにしたのだそうよ」 「なある。東照大権現といやア、公方《くぼう》さまのご先祖だ。こいつは理屈だ。うめえことを考えやアがったもんだな」 「まあ、そうよ。そこで、佐渡の金山へ送られたが、それが十六、七年まえのこと、なにしろふるい話だ。爾来《じらい》、吉五郎のやつ、仲間の手本といわれるまで、神妙につとめていたそうだが、それが去年の秋に島を抜けだしやアがった。ところが、その吉五郎のむかしの仲間に、介十郎という男がある」 「あ、なある!」 「介十郎というなあ、小悪党でたいしたこともしでかさねえから、まあ墨がはいったぐらいで許されているんだが、吉五郎がかえってきたら、きっとその男のもとに身を寄せるにちがいねえから、大急ぎで、介十郎の居どころを捜してみろ、と、こうまあ神崎さまのお話よ。それからもうひとつおもしろい話がある」 「へえ」 「この吉五郎というなあ、もとはご家人くずれの、いい男だったそうだが、そいつにひとつの名人芸がある。凧《たこ》を作らせたら、万人およぶものがねえという話よ」  あっとばかりに、辰と豆六はおどろいた。 「それじゃもうちがいはねえ。親分、やけどの男というのが、たしかにその吉五郎にちがいございません」 「それやったら、あんた、捕えるのにぞうさおまへん。あのやけどがなによりの目印や」 「うっぷ、だからてめえたちはあきめくらよ。やけどなんて世を忍ぶ仮の名、いつまでそんな目印をつけているもんか。いまごろは絵の具を落として、いい男になっていらあな」 「あ、さよか」 「ざまあみやがれ。しかし、親分え。その吉五郎と田宮の若殿とのあいだにゃ、いってえどういう関係があるんでしょうねえ」 「さあ、そこまではわからねえが、そんな悪党のことだから、なにかまたたくらんでいるにちがいねえ。しかし、そこがこっちのつけめだ。ただぼんやりと捜していたんじゃ、あいてもはしっこいからなかなかほねだが、そういうめぼしがついているならもっけのさいわい、辰、豆六もよく聞け。これからゆだんなく、田宮のお屋敷を見張っているんだぜ」  若殿は押し込め隠居   ——金づかいのあらいご後室さま  なるほど、佐七が予言したとおり、江戸じゅうの岡《おか》っ引《ぴ》きが血眼になって捜しているにもかかわらず、権現の吉五郎は、なかなかつかまらない。  八丁堀でもいささかあせりぎみで、佐七にもたびたびの催促だが、佐七はいっこうそのほうに取りかかろうとはしないで、毎日張りこんでいるのは麻布三河台付近。  なにしろ、あいてがかりにも直参のお旗本だから、じかにのりこむわけにはいかぬ。  くつをへだててかゆきをかくおもいはあっても、外部から様子を探るよりほかに、手はなかった。  こうして十日たち、二十日たち、やがて正月も残りすくなになったが、と、ある日。  三河台にある駿河屋《するがや》という居酒屋へ、ぶらりとはいってきた男がある。亭主はその顔をみると、 「おや専蔵さんじゃありませんか。お珍しい。久しくおみかぎりでしたねえ。なにかお屋敷に変わったことでもありましたかえ」 「そうよ、変わったといえば、変わったことだらけだ。とっつぁん、まあ、ひとつ熱くしてくれ」  はいってきたのは、いうまでもなく、田宮の若党専蔵だ。 「へえ、おまえさんのそういうところをみると、よっぽど変わったことがあったとみえますね」 「そうよ、それもこれも、若殿がつまらねえ凧《たこ》なんか持ってかえるからよ」 「凧?」 「そうよ、ほら、いつかもとっつぁんに話したじゃないか。ことしの元日に、ほら、あれよ」 「ああ、あのことですかえ」 「なんでも、若殿は三つか四つじぶんに、あれとおなじような凧を持って、遊んだことがおありなんだそうだ。それでついなつかしく、譲りうけておかえりになったということだが、そのあとがたいへんよ。屋敷へかえってご後室さまにそれをおみせすると、どうしたわけか、これがたいしたご立腹でね」 「へえ、あのやさしいご後室さまが?」 「そうよ、おかげでこちとらまでとばっちりを受けて、とんだ災難さ。それだけならまだいいのだが、そのあとが妙なのさ。翌日から若殿の縫之助さま、ご病気と称してひと間から一歩も出ねえ。ところが、それがほんとのご病気かとおもうとさにあらず、女中の話によると、ピンピンしていらっしゃるんだが、ご後室さまの命令で、外へお出にならねえんだそうだ。まるで押し込め隠居というかっこうよ。なにしろ、ああいう気性のやさしい、親孝行なかただから、ひとこともおさからいにならずに、じっとしんぼうしていなさるんだが、考えてみればわかい身ぞらにむざんな話よ」 「ごもっともで」 「ところが、おかしいのはまだそれだけじゃねえ。ちかごろ、ご後室さまが、とても金づかいが荒くおなりあそばした」 「それは妙ですねえ。近ごろは、ちょっとも、外へお出ましにならぬと聞いておりますが」 「だからおかしいのよ。金の出し入れは万事ご用人が取りしきってるんだが、その話によると、三日にあげず、五両、十両とおせびりになる。外へ出るでもなく、まただれが来るというでもないのに、どこへ消えていくんだろう。まさか埋めておしまいになるわけじゃあるまいにと、ご用人も青息吐息。いや、世のなかにゃ妙なこともあればあるものよ」  と、酒にまかせて問わず語り、べらべらしゃべる話をきいて、ズイと奥から出てきた三人づれがある。専蔵はおどろいて口にふたをしたが、あとの祭りだ。  その姿をジロリとみて、三人づれは表へ出ると、 「辰、豆六、いまの話を聞いたかえ。こりゃどうでも、今晩は寝ずの番よ」 「え、それじゃ親分」 「わかってるじゃねえか。金が消えてなくなるのは、ひとめをさけてよる夜中、取りにくるやつがあるにきまっている」 「そいつが、もしや、権現の吉五郎やおまへんか」 「おおかた、そんなところだろう。ご後室さまというのも、とんだたぬきだ。そのむかし、吉五郎のやつになにか、しっぽを押さえられているにちがいねえ。だから、あの凧をみておどろいたのだ。てっきり吉五郎が島を抜けて、かえってきたにちがいないと、青くなっているところへ、吉五郎がやってくる。むかしの傷をえさにゆすられる。よんどころなく、五両、十両と渡しているにちがいねえ」  と、佐七の推定はうがっていたが、こんどばかりはまちがった。  人形佐七も正月そうそう、とんだ黒星をちょうだいしたものだが、これもまたいたしかたのない話。  ご後室情けの死に水   ——たまにゃしくじるのもいいのよ  その夜ふけ。  三河台の田宮屋敷の塀外《へいそと》へ、あとさきみまわし、すたすたと、近づいてきたふたりづれの影がある。  どちらも黒いずきんをかぶっているが、まぎれもなくひとりは女。 「新さん」  と、女は声をひそめて、 「それじゃおまえさん、ここで待っておいでな。あたしゃちょっとなかへはいって、またお金を掘ってくるからさ」  と、そういう声はまぎれもなく、このあいだのかごの女だ。  名まえはたしかお仙《せん》といった。 「あいよ。だけど、あまり待たしちゃいやだよ。この寒空にいつまでも待っているのはまっぴらだ」 「ぜいたくおいいでないよ。あたしがこれほど苦労して、お金のくめんしてやるのにさ」 「苦労だか、お楽しみだか、へん、わかったものじゃありゃしない。なかにゃ業平《なりひら》のようないい男の若殿がいらっしゃるんだから」 「また、それをいう。あたしがお金をせびるのはご後室さまだと、あれほど念を押してあるじゃないか。おまえもうたぐりぶかいねえ」 「それがおかしいのさ。ご後室さまがなんの因縁で、おまえみたいな人間に、金をみつがねばならないのか、それがわたしにゃのみこめない。おまえもハッキリいえばよいじゃないか」 「まあ、いいから待っておいでよ。こんないい金のつるはないんだもの」  と、お仙が木戸を押すと、なんなくひらく。  そのままお仙はなかへ消えたが、あとには新さんというわかい男が、つまらなそうに、足でのの字を書いている。  と、そのときだ。  ばらばらとやみのなかから近づいてきた黒い影が、いきなり新さんという男を、がっきりうしろから抱きしめたかとおもうと、あっという間もない。さか手にもった短刀で、力まかせに胸をえぐったからたまらない。  新さんはうわっとひと声、虚空をつかんで悶絶《もんぜつ》する。  と、間髪を入れず、 「権現の吉五郎、御用だ!」  という叫び。  しかも、意外なところから降ってきた。あっとぎょうてんしたくせ者が、上をあおぐと、田宮の屋敷からせりだしている松の幹に三人の男のすがた。 「しまった!」  と叫んだくせ者は、ひらりと身をひるがえすと、いまお仙の消えた塀のなかへまっしぐらに駆けこんだが、その直後、松の幹からとびおりたのは、いうまでもなく人形佐七に、きんちゃくの辰とうらなりの豆六の三人。  豆六は、殺された男の顔をみると、 「あ、親分、こいつや、こいつや、あの毒酒を持ってきよったのは」 「ふうむ」  と、佐七は夢からさめたようなかおをした。 「辰、豆六、面目ねえが、こんどこそおれもかぶとを脱いだぜ。いまの女の話をきけば、金をゆすっていたのは吉五郎じゃねえらしい。それにしても、このお屋敷、こいつがお旗本の屋敷でなかったら、踏みこんで、男も女もふんじばるんだが」  と、じだんだを踏むようにして、木戸をにらんでいるおりから、ばたばたと乱れた足音がちかづくと、 「お仙、覚悟!」 「あれえ、吉つぁん、待ってえ、あれえ、あっ!」  叫び声とともに、あけに染まったお仙のからだが、がっくり、のめるように木戸のなかからころがり出た。みると、背中から乳ぶさへかけて、もののみごとにえぐられている。 「おのれ、吉五郎、御用だ、神妙にしろ」  佐七が叫ぶと、 「親分、お手向かいはいたしません。これで島を抜けだしたかいはありました。ごめん」  木戸のなかからつづいてよろよろとよろめき出たのは、みごとに腹かっさばいた権現の吉五郎。なるほど、やけどの跡もなく、月代《さかやき》をそり、ひげを落としたその顔は、年こそよったれ、にがみ走ったいい男だ。 「親分、親分、このお屋敷にゃなんのかかわりもございません。どうぞ、どうぞお騒がせした罪、おまえさんからもよくおわびをしてくださいまし」  それだけいうと、吉五郎はお仙のうえに折り重なって、倒れたのである。 「と、いうわけで、こんどこそはこの佐七にも、すっかり当てがはずれたばかりか、とんときつねにつままれたような感じでございます」  と、にが笑いをしたのは人形佐七だ。  ここは佐七が親ともたのむ、音羽のこのしろ吉兵衛《きちべえ》の家、みすみす吉五郎を殺した面目なさ、そのあいさつにきたのである。  吉兵衛はにんまり笑いながら、 「はっはっは、これもなにかの縁だな。あの権現の吉五郎というやつ、かつては、おれの手で島へ送られ、こんどはおめえの手にかかって自害する。世のなかは広いようでも狭いもんだな」  と、福々しいほおに、感慨深いいろをきざんだ。 「それにしても、わからねえのは田宮のご後室だ。どういうわけで、あのお仙という女にゆすられていたんでしょうね」 「佐七、おめえ、それがわからねえのか」 「へえ、すると、親分にはおわかりで?」 「そうさ、おめえにわからねえのもむりはねえな。むかしのことを知らねえのだから。佐七、吉五郎とお仙はむかし夫婦だったのよ」 「へえ、そりゃあらかた察していますが」 「あのお仙という女は、人魚を食ったみたいにいつまでも若いが、あれが希代の毒婦での。吉五郎が道を踏み迷ったのも、あの女のためだ。ところで、吉五郎が御用になったとき、ふたりのあいだに子どもがひとりあったはずなんだ」 「へえ?」 「その子どもを、吉五郎がどう処分したのか、おれも知らず、お仙も知らぬ。いよいよ吉五郎が島送りになるという日、お仙が会いにきてな。子どもはどうしたと、気違いみてえに責めたてたものよ。おれはそのとき、吉五郎の答えたことばをいまでもハッキリおもいだすことができる。おめえのような女にゃ、子どもをまかしておくことはできねえ。介十郎のやつに頼んで、子どもはさるお屋敷のまえに捨てさせた。おれが心をこめて作った凧《たこ》のうえに、そうっとのっけて。——とな、吉五郎はそういったのよ。わかったか」 「あっ。それじゃ、あの縫之助さまは……」 「これ、大きな声でいうものじゃねえ。人間は氏より育ちだ。あんなりっぱな若殿になっているのをみて、吉五郎はさぞ満足だったろう。それをみたいばっかりに、島を破ったかとおもうと、やっぱり親だなあ、涙がこぼれる」 「わかりました。わかりました。それで、あの晩、騒ぎを聞きつけて起きていらしたご後室さまは、お仙と吉五郎の姿をみると、すぐ若殿を呼びおこして、死に水をとらせておやりなさいましたが、ありゃそれとなく、親子の別れをおさせなすったのですねえ」 「ふむ、よくできたひとだそうだからの。それにしても、憎いのはお仙だ。わが子の居どころを捜してわからず、そこで吉五郎の島破りをきくと、以来介十郎に目をつけていたんだろうが、桜田御門の一件から、はじめてわが子のありかを知ると、その出世をよろこぶどころか、それを種に金をゆすったばかりか、じゃまになる吉五郎を毒殺しようとさえしたのだ。わるい女よ」 「それがあるから、吉五郎も島にいられなかったのかもしれませんねえ。わが子のために、わるい女親をかたづける。わが子が大目付下総守さまの娘ごと縁談がきまったと聞き、どうでもそのまえにお仙を殺すつもりで、それもひとつの目的だったかもしれません。いや、いい話です。これじゃあっしも、しくじったのがいっそうれしいくらいですよ」  佐七はしみじみとした調子でいった。吉兵衛もおだやかにわらって、 「たまにはしくじるのもいいのよ。いつもてがらばかりたてていると、ひとに憎まれる。まあ、のんびりとやるんだなあ」  日当たりのいい縁側に、うぐいすがいい声でさえずって、どうやら江戸も春めいてきた。     ふたり市子  根岸お行の松   ——初雷やことしもちょうど梅の上 「そうら、光った光った。兄い、いまにごろごろ鳴りだしまっせ」 「わっ、豆六、助けてえ!」  と、どしゃ降りのなかをころげるように、お行《ぎょう》の松の下へとびこんできたのは、神田お玉が池は人形佐七の、片腕ともいわれるきんちゃくの辰。  日ごろはいたって威勢のいい男だが、どういうものか雷ぎらい。  遠くのほうでぴかっときても、顔色がかわるというくらいだのに、きょうはまた、運が悪い。  頭の上あたりで、ぴかぴかごろごろやりだしたから、てんで生きた色はない。  ちょうどお行の松の下へとびこんだせつな、ゴロゴロゴロ……と、猛烈なやつが頭の上でとどろきわたり、やがて、ずしいんと地響きがしたから、 「きゃっ、ひ、人殺し……」  と、両手で、しっかと耳をおさえ、松の根もとへしゃがみこみ、くわばら、くわばら、万歳楽とは、まったくいくじのない話である。  お行の松にはふたり、雨宿りの先客があったが、いまの雷鳴のものすごさには、いずれも顔色をうしなって、 「いまのはどこかへ、お下がりになったようですね」  と、どこかの大店《おおだな》のだんならしいのが、辰のあとから駆けこんできた豆六にむかって話しかける。 「へえ、あら、たしかにどこかへお下がりだしたな。しかし、だんな、こら、いったいどないしたもんだっしゃろ。やっと梅が咲いたじぶんやというのに、この大雷は、なにごとだっしゃろな」 「いや、古句にもあるとおり、初雷《はつらい》やことしもちょうど梅の上といいましてね、えてして梅の咲くころには、ときならぬ雷があるもんです。あっ、また光った!」 「わっ、くわばら、くわばら!」  と、耳をおさえたきんちゃくの辰が、がたがたふるえているところへ、鳥居をくぐってまたひとり、とびこんできたのは女である。  縞《しま》のきものに笈摺《おいずる》のようなものを羽織り、糸経《いとだて》を背負って、かまぼこがたの竹《たけ》の子笠《こがさ》をかぶっているところをみると、ひとめでしれる市子《いちこ》である。手にしたふろしきづつみから、梓弓《あずさゆみ》が少しのぞいている。  いまのひとに市子といっても、わからないかもしれないが、新村先生の広辞苑《こうじえん》によると、 「生《い》き霊《りょう》、死霊《しりょう》の意中を述べることを業とする女。くちよせ」  とある。  現今はやる心霊術における霊媒みたいなものである。  市子はどしゃ降りのなかをまっしぐらに、お行の松へとびこんできたかと思うと、そこにいるひとびとには目もくれず、そばにある不動尊の辻堂《つじどう》へかけのぼると、きつね格子《ごうし》をおしあけて、ころげるようになかへ駆けこんだが、そのとたん、またしても、 「ごろごろごろ……ごろごろごろ……」  と、さっきより、またひとしお大きなのが、頭の上でとどろきわたったかと思うと、雨はいよいよ勢いを加えて、それこそ、盆をひっくりかえしたように降りだした。 「わっ、こらまた、どないしたことだっしゃろ。けったいな天気もあったもんやな」 「ほんとうに、もうそろそろ、やみそうなもんだと思っていたのに、こりゃまた、いよいよはげしくなってきましたね」  と、だんならしいのが、心細そうに空を仰ぐかたわらから、 「それにしても、このひとは、おまえさんのお連れさんかね」  と、松の根もとでがたがた、ぶるぶるふるえているきんちゃくの辰を指さして、そう尋ねたのは医者らしい風体の男である。 「へえ、さよさよ。わての兄貴分だす」 「いい若い衆だが、たいそうな雷ぎらいだとみえるね」 「へえ、そらもう、日ごろはこわいものなしの、威勢のええ兄さんだすが、雷だけがだいのにがて、遠くのほうでぴかっときても、がんがん頭痛がするんやそうだす。まあ、わらわんといてやっておくれやす」 「いや、だれがわらいますものか。雷ぎらいというのはよくあるもので、こればっかりは生まれつき、おくびょうとかなんとかいうのとちがいますからねえ、先生」 「さよう、さよう。ときに、だんな、いま何刻《なんどき》ごろでしょうねえ、だんだん暗くなってくるじゃアありませんか」 「まだ八つ(午後二時)ごろだと思いますがねえ。なんぼ冬の日は短いって、そう早く暮れるはずはないんだが……」  と、だんならしいのが心細そうに、どしゃ降りのなかを見まわしていたが、そこへまたひとり、とびこんできた老女をみて、 「おや、そこへきたのはお紋じゃないか。この雨のなかを、おまえどこへいっていたんだ」  と、声をかけられて、お紋はぎょっとしたように、 「おや、まあ、だんな、こんなところにいらしたんですか」 「うっふ、急にな、あいつの顔が見たくなって出かけてきたんだが、この雨に降りこめられて弱っているんだ。しかし、おまえは、いったいどこへ……」 「はい、あの、ねえさんのおいいつけで、池《いけ》の端《はた》の錦袋円《きんたいえん》まで薬を買いに……」  お紋はなんとなく、へどもどしたようすだが、だんなはべつに気にもとめず、 「ああ、そう、それじゃうちにはお滝ひとりだね。かわいそうに、あいつもそうとう雷ぎらいだから、さぞこわがっていることだろう。錦袋円の癪《しゃく》の薬が、さっそく役にたつかもしれない」 「だんな、お楽しみでございますね」  と、医者らしいのにからかわれて、 「いや、どうも、年がいもなくね」  だんなはいささかてれながら、 「ときに、お紋や、長松がいったはずだが……」 「おや、さようで。わたしはお昼ご飯がすむと、すぐ出かけましたので、それじゃきっと、入れちがいになったんでございましょう」 「ああ、そう、それじゃ、あいつのこったから、また、どこかで、道草を食ってるんだろう。しようのないやつだ。ずうたいばかり大きいくせに……わっ、また、光った!」 「あれえ!」  お紋もそうとうの雷ぎらいらしく、血相かえて、辻堂のうえへ駆けあがると、きつね格子をがたがた外から押していたが、なかから突っかい棒でもしてあるらしく、さっきのようにはひらかない。 「あれ、おまえさん、後生だからここをあけて……あれえ!」  おりからとどろきはじめた雷鳴に、お紋は縁先に突っぷしたが、そのとき、なかからそっときつね格子があいたかとおもうと、とび出してきたのはさっきの市子。  手ぬぐいを吹きながしにかぶったうえに、竹の子笠をまぶかにかぶり、顔をそむけるようにして、おりからのどしゃ降りのなかへ、いちもくさんに駆けだしていったのは、それからまもなくのことである。  ひとしきり、ごろごろがらがら、はためいていた雷鳴が、やっと鳴りおさめたので、ほっとしたように顔をあげたお紋が、なにげなく辻堂のなかへ目をやって、 「あれえ!」  と、年がいもなく、金切り声をあげてのけぞった。 「ど、どうした。お紋、雷さまはもうお通りになったじゃないか」 「いえ、あの、か、か、雷さまじゃございません。だ、だ、だんな、ひ、ひ、人殺しイ!」  とたんにぎっくり、鎌首《かまくび》をもたげたのはきんちゃくの辰。  豆六と顔を見あわせると、ばたばたと辻堂のまえへ駆けよったが、ひとめ、なかをのぞいたせつな、おもわず息をのみこんだ。  さっき市子の羽織っていた糸経《いとだて》の下から、にょっきりのぞいているのは白い女の足である。 「それ、豆六」 「おっと、合点や」  豆六がなかへとびこんで、その糸経をとりのけると、なんと、その下には、腰のものいちまいの裸の女が、糸経の緒で、みごとに絞め殺されているのである。  市子のおさめ   ——お滝が蚊帳《かや》の中で殺されて 「豆六、それでおまえ、その市子というのをすぐ追っかけなかったのか」 「いえ、そら、親分、人殺しやとわかると、すぐあとを追っかけましたが、なにせ、しのつく雨のなかだすよってん、西へいったか東へいきよったんか、てんでゆくえがわかりまへんがな」 「ふむ。しかし、その市子が、どうしてここに、この女のいることを知っていたろう」 「へえ、どういうわけか知ってたんだすな。鳥居をくぐるとまっしぐらに、辻堂のなかへはいっていきよりました。ここで待ち合わせる約束でもしてたんやおまへんか」 「辰、おまえはそれを見ていねえんだな」 「親分、面目ねえが、あの雷で……」 「あっはっは、なにもベソをかくことはねえやな。困ったもんだというもんの、病気だからしかたがねえ。しかし、それにしても、どうして身ぐるみはいでいきゃアがったかな」  ふしぎそうに首をかしげて、女の死体に目を落としたのは、いうまでもなく人形佐七だ。  きょうは根岸の笹《ささ》の雪《ゆき》で、ちょっとした寄り合いがあり、佐七は辰や豆六より、ひとあしさきに出向いたが、そこへ弥次郎兵衛《やじろべえ》のようなかっこうで、とびこんできた豆六の、人殺しだという注進に、寄り合いもなにもおっぽり出して、お行の松へ駆けつけてきたのである。  雷はもうだいぶまえにやんで、雲の切れめから春先らしい日がさしている。さっきのあの大雷雨が、うそかと思われるほど、静かな根岸の里なのだ。  どこかで、うぐいすが鳴いている。  しかし、その静かな根岸の里のかたほとり、お行の松のまわりには、人殺しときいて、やじうまがいっぱいむらがり、ぶきみそうに鳥居のなかをのぞいている。  さて、鳥居のなかのお堂のまえには、さっきのだんなと医者と、ばあやのお紋が、あおざめた顔をして立っていた。  ところで、辻堂のなかで絞め殺されている女だが、こればっかりは、おせじにも美人とはいいにくい。  としは四十五、六だろう。ちぢれっ毛をいちょう返しにゆって、かっと見ひらいた目のかたっぽに、大きな星がはいっている。  歯を染めていないところをみると、このとしでまだ独身とみえるが、しなびた乳ぶさといい、そまつな腰巻きのしたから露出している太もものうすい肉づきといい、どこにも女らしい魅力はなく、むしろ醜怪でさえある。 「それにしても、大胆なやつもあればあるもの、いかに大雷雨のさいちゅうとはいえ、五人も人のいる目のまえで、人殺しをしやアがるとは……」  佐七はいまいましそうに舌打ちしたが、辰と豆六は面目玉まるつぶれである。 「いや、親分、なんとも申しわけがございません」 「まあいい、できたことはしかたがねえ。とにかく、その女を抱きおこしてみろ。なにか遺留品はねえか」  しかし、辻堂のなかには、はだかの女の死体のほかに、遺留品らしいものはなにひとつなく、犯人は女の身ぐるみはいで、完全に持っていったらしい。 「まあ、左の目に大きく星がはいっているから、身もとはおっつけわかるだろうが……もし、おまえさんがた」  と、辻堂のまえに立っている三人をふりかえって、 「もしやおまえさんがた、この女に、見覚えがおありじゃございませんか」  しかし、三人は死体の顔にちょっと目をやっただけで、すぐその目をそらせると、あわてて首を左右にふった。 「こうなったら、おきのどくだが、おまえさんがたもかかりあいだ。ひとつ、所と名まえをきかせてください」  それにたいする三人の答によると、下谷|金杉《かなすぎ》にある大きな金物屋のだんなで樽屋新兵衛《たるやしんべえ》。ついこのさきにお滝という女を囲っているが、そこへ出向いていく途中、あの大雷にあって、ここへ逃げこんだのである。  それからいまひとりは、下谷車坂にすむ医者で、名まえは原麦庵《はらばくあん》というが、吉原《よしわら》の玉屋の寮から、急病人があると迎えにきたので、これから出向くところだという。  さて、さいごのひとり、お紋というのは、さっきの話でもわかるとおり、樽屋の妾宅《しょうたく》の召し使いだが、お滝のいいつけで池の端まで使いにいったかえりであった。 「なるほど、それじゃ、またのちほど、お呼び出しがあるかもしれませんから、よくお含みおきくださいまし」 「はい、承知いたしました」 「それでは、わたしは急病人がございますから……」  そですりあうも他生の縁というが、こんな縁はあんまりありがたくない。  三人がほうほうの体で立ち去ったあとへ、このへんの名主があたふたと、書き役などをつれてやってきた。 「どうもこりゃア、おそくなって申しわけございません。とんだことが起こったそうですが、親分にはまたはやいお出ましで……」 「なあに、あっしゃちょうど、笹の雪へきていたもんですから……ときに、だんな、この女ですがねえ、だれか見知り人はございませんか」 「さて……と」  名主はこわごわ辻堂のそとから、女の顔をのぞいていたが、ぞっとしたように首をすくめて、 「さあ、いっこう……このへんのもんじゃなさそうですが、だれか、おい」  名主の合い図にやじうま連中、めずらしそうにぞろぞろ鳥居のなかへはいってくると、辰と豆六の抱きおこす死体の顔をひとりひとり見ていったが、なかにひとり植木屋の職人らしいのが、 「やあ、親分、だんな、そりゃおさめという市子ですぜ」 「なに、この女も市子だと……?」  佐七はおもわず、辰や豆六と顔見あわせる。 「へえ、市子のおさめにちがいございません。そういやア、このさきの植松さんとこで、きょう市子を呼んで、せんだってなくなったおかみさんの口寄せをするんだという話でしたが……」  市子というのは、俗にいう神降ろし、死霊や、生き霊を呼び出して、それをじぶんに乗りうつらせ、死霊や、生き霊のいいたいことを口走るという、あんまり気味のよい職業でない女のことをいうのである。 「親分、わかった。それじゃ、おなじ市子仲間が、なにかの遺恨でやったんですぜ」 「そやそや、それやからこそ、ここにおさめがいることを知っていよったんやな」  辰と豆六は勢いこんだが、佐七もきらりと目を光らせて、 「ときに、おまえさん、この市子の住まいというのを、ご存じじゃありませんか」 「へえ、なんでも、下谷の山崎町《やまざきちょう》だとか聞いております。そうそう、たしかこのおさめにゃ、ふたごの姉があるという話でしたが……」 「ふたごの姉やてえ?」 「あっ、親分、それじゃそいつが……」  と、いいかけたところへ、鳥居の外から、ころげるように駆けこんできたのは、いまここから出ていったばっかりのお紋である。 「お、お、親分さん、ま、ま、また、ひ、ひ、人殺しで……」  きいて一同はびっくりぎょうてん。 「な、な、なんだと、お紋さん、また、人殺しだって?」  さすがの佐七も、どぎもを抜かれた。 「は、はい、ねえさんのお滝さんが、寝床のなかで殺されて……」  それだけいうと、腰がぬけたか、お紋はへなへなと、その場にへたばった。  風流置きごたつ   ——これはとあわてるふとんの下  樽屋の妾宅のおく座敷。  雨戸をしめきったくらい座敷に置きごたつ、置きごたつのうえに蚊帳《かや》がつってあり、その蚊帳のなかに女がひとり、なまめかしいこたつぶとんから、上半身、乗り出すようなかっこうで倒れている。  お滝である。  がっくりとまくらをはずし、あおむけに倒れたのどのあたりに、ありありのこる紫色の痕跡《こんせき》から、お滝はなにか、ひものようなもので絞殺されたにちがいない。  絞められるとき、かなりもがいたとみえて、夜具が乱れ、はだけた長じゅばんの胸もとから、むっちりとした乳ぶさがのぞいているのが、辰や豆六には目の毒だ。  なにしろ、さっきの市子とちがって、こっちはすごいようなべっぴんだから、それだけに、この場の情景のすごさが身にせまる。 「親分、これゃこたつにあたっているところへ、雷が鳴りだしたので、あわてて蚊帳《かや》をつったんですね」  なるほど、そういえばまくらもとに、線香を立てた跡がある。 「そやそや、そこへだれかが忍んできて、くびり殺しよったんや」 「ふむ、それにしても、あんまり抵抗したふうがみえねえのがふしぎだな」  そういいながら、なにげなく、佐七はお滝の胸もとまでかかっているこたつの掛けぶとんをまくりかけたが、ひとめその下をみると、思わずぎょっと息をのみ、あわててふとんから手をはなした。 「親分、こ、こ、これは……」  辰も豆六も、掛けぶとんの下をみたのにちがいない。おもわず息をはずませる。  それは、なまめかしいなどというのを通りこして、あさましいほど、赤裸々な姿態だった。  お滝は絞殺される直前、あきらかになにものかと、痴情のひと幕を、くりひろげていたのである。  そして、ことをおわったしゅんかんに、男がうえから絞め殺したらしいのである。そこには男ののこしていったものが、目をおおわしめるがごとく、女はおそらく、情痴の余波に身をおぼらせて、まだ夢うつつだったろう。 「辰、豆六、これゃわれわれじゃいけねえ。玉屋の寮にさっきの医者、原麦庵とかいったな、あの先生がいるはずだから、豆六、あっちの病人がおわったら、すぐ、こっちへきてくれるようにいってこい」 「へえ」  と、豆六がとび出していったあとから、佐七も辰をひきつれて、この異様な情痴の惨劇をくるんだ蚊帳から、ぬけ出した。  となり座敷は茶の間になっていて、そこにさっきの樽屋新兵衛と、ばあやのお紋があおい顔をしてすわっている。 「だんな、お紋さん、おまえさんたち、あの掛けぶとんの下をごらんになりましたか」  新兵衛とお紋は、それにたいして答えなかったが、その顔色はあきらかに、ふたりがすべてを知っていることを物語っている。 「それじゃ、お滝さんにゃだんなのほかに、だれかおとこがあったんですね。あの場の様子じゃ、手込めにされたとは思えねえが……だんな、ご存じでしたか」 「いいえ、わたしゃ知らなかった。知ってたらそのままにゃしやアしません。もっとはやく暇を出してしまいます」  苦しそうな息を吐く新兵衛の顔色には、ありありと悔恨のいろがうかがわれる。 「お紋さん、おまえさんは知っているんだろうねえ。お滝さんが、どんなにじょうずに首尾したところで、おなじ家に住むおまえが知らぬはずはねえ。なまじ隠しだてするとためにならねえぜ。なにもかも申し上げてしまえ」 「だんなさん、す、すみません」  お紋はわっと泣きだした。 「泣くことはねえやな。それより、お滝の情人《いろ》というのをいってくれろ。どういう男だ」 「はい、あのお滝さんは、湯島の水茶屋に出ているころから、宮しばいの瀬川春之丞《せがわはるのじょう》さんと深い仲になっていて、だんなにここへ囲われてからも、ちょくちょくと……」 「それをおまえが、見てみぬふりをしていたのか。たいそう粋だといいたいが、口止め料でももらっていたんだろう」 「ああ、もし、親分」  と、新兵衛はせつなそうに、 「お紋を責めるのはかんにんしてやってください。わたしがバカだから、つまらない女にひっかかって恥をかきます。いや、わたしみたいな年寄りのおもりをしていちゃ、お滝もそれくらいのお楽しみがなくちゃ、しんぼうできなかったんでしょう。あっはっは」  新兵衛がかわいた声をあげて笑うと、 「しかし、まさか、あの春之丞が……」 「だんなは春之丞をご存じですか」 「いいや、会ったことはない。舞台も見たことはありませんが、たいそうきれいな女形《おやま》だと聞いております」  江戸時代には、公許のしばいは三座しか許されなかったが、そのほかに芝の神明だの、湯島の天神の境内には、掛け小屋のしばいが行われて、おりおりそこに、とんでもない掘りだしものの役者が現われることがあった。  いま、湯島の境内に出ている瀬川春之丞なども、芸はともかく、その容姿の美しさにかけては、三座にもあれほどの女形はいまいという評判で、うわきな娘や年増《としま》のあいだで騒がれている。 「お紋さん、それできょう、春之丞はここへ忍んでくることになっていたのか」 「さあ……でも、ここから池の端までは相当ございます。そういう遠いところへ、用事にやられるときには、たいてい……」 「春之丞が忍んでくるのか」 「そうのようでございました」 「それじゃ、きょう、春之丞が忍んできたとみていいな。辰」 「へえ」 「おまえ、春之丞というのを知っているかえ」 「へえ、うわさは聞いております。舞台も見たことがあります。とてもきれいな役者で、おとなしそうな男です。こんな手荒なことをしそうなやつとは思えませんがねえ」  辰が小首をかしげているところへ、豆六が麦庵をつれてきた。  麦庵はみちみち話をきいてきたとみえ、あいさつもそこそこに、ひとりでおく座敷へはいっていったが、まもなく出てきたところを見ると、すっかりてれている。 「いや、どうも驚きましたね。こちらの兄のおっしゃるとおりにまちがいなし」 「それじゃ、やっぱりあのさいちゅうに……?」 「そうそう、だから、女は首にひもをまきつけられても気がつかなかったか、気がついても冗談だと思っていたんでしょう」 「なるほど」  佐七はちょっと考えて、 「ときに、だんな、さっきこいつらが、お行の松できいたところでは、長松というのが、こちらへ使いにきたとかいう話でしたが……」 「ああ、そうそう、その長松はどうしたのか……いま、ひとを頼んでこのことを、うちへ知らせにやったところが、長松がまだかえっていないということで」 「長松というのは……」 「うちの丁稚《でっち》なんですが、お滝が至急に五両ほしいというので、長松に持たせてよこしたんです。わたしゃきょうはこれまいと思っていたもんですから」 「それはいつごろ?」 「昼飯がすんでまもなくのことでした。そろそろ、長松がこちらへついたかなと思うころ、遠くのほうで、ごろごろ鳴りだしたんです」 「その長松が、まだかえっていないというんですね」  佐七が小首をかしげたときである。  とつぜん、お滝の死んでいるおく座敷から、がさごそという物音とともに、ひとのうめき声がきこえてきたから、一同はぎくっとばかりにふりかえった。 「お、親分、もしや仏が生きかえったのでは……」  一同はどやどやと、おく座敷へ踏みこんだが、お滝はあいかわらず、蚊帳のなかでたおれている。しかも、うめき声と、がさごそという音はまだきこえる。 「あ、親分、あの押し入れのなかだっせ」 「よし、辰、開いてみろ!」  辰が押し入れを開いたせつな、 「あっ、ちょ、ちょ、長松!」  丁稚の長松はことし十六、まだ前髪ながら、骨組みはそろそろおとなになりかけている。  その長松が、口にさるぐつわをはめられたうえ、高手小手に縛りあげられて、押し入れのふとんとふとんのあいだでうなっていた。  市子のお爪《つめ》   ——似たりや似たりうり二つ 「親分、これゃどういうんです。お滝殺しと、市子殺しと、なにかつながりがあるんですかえ」 「さあ、それはおれにもわからねえ」  それからまもなく、樽屋の妾宅を出た佐七は、なにかひどく考えこんでいる。 「親分、わての考えでは、市子殺しとお滝殺しはべつだっせ。わてにはだいたい、だれがお滝を殺したんか、見当がついています」  豆六はしたり顔に鼻うごめかす。 「ほほう、それはえらいな。いったいだれだ」 「あのだんなの新兵衛やがな」 「えっ、新兵衛がどうしてまた?」 「新兵衛のやつ、春之丞のことを知ってたんやがな。そこで、かわいさあまって憎さが百倍と、絞め殺しよったんや。そうしておいて、お行の松で、お紋のかえるのん待ってたんやな。つまり、いかにもこれから出向くとこや、ちゅうふうにみせかけるためだんな」 「なるほど、なるほど」  辰はことごとく感服して、 「どうも春之丞にゃア、ああいうあらっぽい芸当はできねえと思っていたが……親分、これゃ豆六のいうとおりですぜ」 「それじゃ、市子殺しはどうだ」 「市子殺しは、やっぱり市子が殺したんやろ。ひょっとすると、ふたごの姉かもしれまへん」 「しかし、豆六、そうすると、新兵衛はなぜ長松に、五両の金を持たせてやったんだ」 「そら、親分、いかにもじぶんがいけんちゅうことを、みせかけるためやおまへんか」  なるほど、豆六の説によると、なかなかつじつまがあっている。  長松の話によるとこうなのだ。  途中道草を食っていたかれは、にわかの大雨に、ずぶぬれになって妾宅へとびこんだが、どこにもお滝のすがたがみえない。  ひょっとすると、おく座敷では……と、声をかけてふすまをひらいたとたん、なにか堅いもので、額をぶんなぐられ、それきり気が遠くなって、あとのことは、なにもわきまえないというのである。  そういえば、長松の額には大きなこぶがあり、無意識のうちにいましめを解こうとした手首には、いちめんのかすり傷。 「親分、こら、豆六のいうとおりですぜ。新兵衛は長松のくることを知っていたから、ふすまのかげで待ち伏せしていたんだ。そして、長松が気を失ったところで、ふところにある五両の金、取りかえしたにちがいねえ」  長松が持っていった五両の金は、妾宅から紛失しているのである。  佐七はそれにたいして、はっきりとした返答もなく、なにか思いに沈んでいたが、そのうちにやってきたのが、まだやじうまのむらがっているお行の松の鳥居まえ。  すると、三人のすがたを見つけて、 「あっ、もし、親分、ちょっと、ちょっと」  と、鳥居のなかから役人が呼びとめた。 「へえ、なにかまたありましたか」  と、三人がなかへはいっていくと、 「いま、むこうの小川で、こんなものを見つけたと、届けてきたものがございますんで」  と、役人の指さすところをみて、三人はおもわず大きく目をみはった。  辻堂の縁側においてあるのは、かまぼこがたの竹の子笠。ほかにふろしき包みがひらいてあるが、なかに包んであるのは縞《しま》のきものに、笈摺《おいずる》のようなそでなし羽織、梓弓《あずさゆみ》までそえてあるところをみると、市子の衣装にちがいない。 「あっ、それならさっきのあの市子、はだかになって逃げたんかいな」 「豆六、たしかにさっきの市子のきものか」 「へえ、それにちがいおまへん。なんなら、樽屋のだんなや、麦庵にみてもろたら……」  あきれかえる豆六の顔をしり目にかけて、佐七はにんまり、会心の笑《え》みをもらすと、 「辰、豆六、これでどうやら市子殺しとお滝殺しに、つながりがついたようだな」 「親分、それはどういうんです」 「豆六、この寒空に、だれがはだかで逃げるもんか。だいいち、それじゃアかえって人目につかあ。辰、市子が市子を殺して逃げたんじゃねえんだ。だれかこの辻堂にいるところへ、雷をおそれて市子がとびこんだんだ。そいつをさきにいたやつが絞め殺し、きものをはいで、市子に化けて逃げたんだ。豆六、おまえ市子の顔をみたか」 「へえ、そういえば、逃げるときには、竹の子笠のしたに、手ぬぐいを吹き流しにかぶって顔をそむけていきよった。それに、なにしろあの大雷で、わてもちょっと……」 「しかし、親分、そいつはなんだって、そんなあぶない芸当を……」 「そりゃアたぶん、辻堂のそとに、顔をあわしちゃまずい人間がいたんだろうよ」 「顔をあわしちゃまずい人間とは……?」 「樽屋のだんなさあね」 「あ、そ、それじゃ、瀬川……」 「しっ!」  と、佐七は辰をたしなめ、 「とにかく、道順だ。市子の家から湯島へまわってみよう。いや、どうもご苦労さま」  役人衆にあいさつをして、お行の松を出た三人が、それからまもなく、やってきたのは下谷の山崎町。市子おさめの家ときくとすぐわかった。  近所できくと、おさめの双生児の姉というのは、お爪《つめ》といって、ふたりとも亭主を持たずに、ずっといっしょに暮らしており、お爪もおさめとおなじように、市子の口寄せを職業としているという。  そのお爪の家のまえに立って、 「ごめんよ、市子のお爪さんの家はこちらかえ」  と、辰がとうと、 「はい、お爪はわたしだが、用事があるなら、遠慮なくはいっておくれ」 「じゃ、ちょっとおじゃまをするよ」  と、がたぴしの格子をひらいて、神だなの前にすわっている女の姿をみたとたん、さすがの佐七も思わずあっと息をのんだ。  ちぢれっ毛のぐあいから、左の目に星のはいっているところまで、お爪はおさめとうりふたつ。おまけに、着ているものまで、さっきお行の松で見せられた縞《しま》のきものと、笈摺《おいずる》のようなそでなし羽織と、そっくりおなじものだった。  瀬川春之丞   ——こちとらまで魂を抜かれそう  それからまもなく、お爪のもとを出た三人が、やってきたのは湯島の境内、中村源之丞一座と、のぼりのあがった掛け小屋をのぞくと、きょうの大雷雨で、しばいは休み。  楽屋へまわると、役者が五、六人、車座になって花札をめくっている。  大雷雨が去ると、にわかに南風が吹きこんできたのか、ポカポカ陽気がぶりかえしていた。 「おや、これやお玉が池の親分、なにか一座のものに、ふつごうでもございましたんでしょうか」  ちょうど居合わせた頭取が、佐七の顔を知っているとみえて、不安そうにもみ手をする。 「いや、なに、気づかうことはねえ。瀬川春之丞というのがたいした人気だから、ちょっと顔を見にきたんだ。いま……?」 「はい、あの春之丞は、一番めにからだがあいておりますので、ちょっと用たしをしてくると、昼過ぎにどこかへ出かけましたが、まだかえってまいりません。たぶん、あの大どしゃ降りで、しばいは休みになると思って、ほかへまわったんでございましょう。しかし、春之丞になにかご不審でも……?」  頭取の不安の色はいよいよ濃くなる。役者たちも花札をかたづけて、不安そうに、佐七の顔色をうかがっている。 「いや、そういちいち気にされちゃ話ができねえ。だけど、春之丞というのは、なかなか女にもてるというじゃないか。あっはっは」 「へえ、それはもう、三座にもないといわれるほどの器量ですから……しかし、あれにかぎって、あくどく女をしぼるというようなことは……」 「ほんとにそうですよ、親分」  と、そばから老役《ふけやく》らしいのもことばを添え、 「あれはほんとうに気だてのやさしい、おとなしい子なんです。それはまあ、若いから、女出入りはいろいろございましょうが……」 「ちかごろ、金につまっているというような話はねえか」 「そういえば、おふくろが病気で、にんじん代に五両の金がいるとかで心配していました。親ひとり子ひとりの、たいへん親孝行なやつですから……」  にんじん代の五両ときいて、三人はおもわず顔見合わせる。お滝がだんなに無心を吹っかけたのは、春之丞にみつぐためだったのだ。 「しかし、親分、ほんとに、春さんがどうかしたんですか。五両といやア大金だが、あいつがその気で頼めば、みつぐ女はいくらでもある。金のために悪事を働くなんてことは……もっとも、女にみつがせるのが、悪いといやアそれまでですが……」 「いや、それを悪いといやアしねえが、ちっとばっかり、気にかかる節があってな」  佐七がことばを濁しているところへ、 「おや、春さんがかえってきた。春さん、ちょっとここへきねえ。お玉が池の親分が、なにかおまえに聞きたいことがあるとおっしゃる」  お玉が池の親分ときいて、春之丞ははっと、のれんぎわに立ちすくむ。  なるほどいい器量である。  そのころの女形のつねとして、女のように、ぞろりとしたなりをしているが、紫|縮緬《ちりめん》のずきんをおいたその顔の、悩ましいまでのにおやかさは、女形ということばから、形という字と取ってしまいたいほどである。 「ああ、おまえさんが春之丞さんか。なるほど、聞きしにまさるというやつだな。これゃうっかりしていると、こちとらまで魂を抜かれそうだ。あっはっは」 「あれ、ご冗談を……」  と、春之丞はひとみを不安にふるわせて、 「親分さん、あたしにご用とおっしゃいますのは……?」 「なあに、たいしたことじゃねえが、おまえいままでどこにいたんだ」 「えっ!」  春之丞ははっと、吐胸《とむね》をつかれたらしい顔色で、くちびるの色まで紫色になった。 「あっはっは、なにもそんなに驚くことはないじゃないか。きょう、昼過ぎにここを出て、どこへいったか、それをききてえんだ」  春之丞はうつむいたまま、わなわなと肩をふるわせていたが、やがて涙にうるんだ目をあげると、 「親分さん、どういうわけで、そういうお尋ねがあるのか存じませんが、こればっかりは申し上げられません」  佐七はじっとその顔を見ながら、 「春さん、おまえ根岸に囲われている、お滝という女を知っているか」  春之丞ははっとしたらしい顔色だったが、それでも、いくらか意外らしく目をみはって、 「はい、あの申しわけございません」 「おまえ、きょう根岸へいったんじゃねえのか」 「はい、あのそれが……あのかたにも、お願いしておいたことがございますが、ほかのほうでまにあいましたものですから……わたくし、なるべくあのかたには、お目にかかりたくないと、思っているものですから……」 「そりゃ、また、どうして?」 「はい、それと申しますのが、あのかたを世話していらっしゃるだんなの、お店《たな》のかたに、気づかれたんじゃないかと思いまして……」 「お店のかたとは?」 「はい、あの、長松さんという丁稚のかたでございます」  佐七はおもわず、辰や豆六と顔見合わせた。 「なに、長松が……」 「はい、なんだかそんな気がしたもんですから……しかし、親分さん、お滝さんがなにか……」 「おお、そのお滝がきょう、大雷雨のさいちゅうに、蚊帳のなかでくびり殺されたんだ。しかも、どうやらお楽しみがあったらしいんでな。それに、お滝がだんなに無心をした五両の金がなくなっているんだ」  それをきくと、春之丞はまっさおになり、あわててじぶんの胸をおさえた。そのふところには五両の金が……。  市子の口寄せ   ——ひかれ誘われ寄りましたわいなあ 「親分、親分、いってえ、どういうんです。おまえさんみてえないい親分が、市子の口寄せで下手人を知ろうなんて、あんまり、バカバカしいじゃありませんか」 「ほんまに、親分、市子の口寄せなんて、あらでたらめやいう話だっせ。そんなもんあてにするとは、あんた、やきがまわらはったんとちがいまっか」 「あっはっは、面目ねえがそのとおり。おれもすっかりやきがまわって、市子の口寄せでも頼みにするより手がなくなったのさ」  いったい、なにを血迷ったのか、佐七はこんどの一件を、お爪にたのんでその口寄せで解決しようというのである。  つまり、お爪に神降ろしをさせて、おさめとお滝の死霊を呼びだし、その口から、下手人の名をきこうというのだから、これでは辰や豆六が、あきれかえるのもむりではない。  その口寄せは、きょうお滝の殺された根岸の妾宅《しょうたく》で、関係者一同あつめて行われる。三人はいまそこへおもむく途中なのである。 「親分、親分、そんなつまらねえこといわねえで、春之丞をひっぱたいたらどうです。あいつ五両の金を持っていたうえに、あの日どこにいたのか、どうしてもいわねえというのは、てっきり、あいつが根岸の妾宅で……」 「そや、そや、それにちがいおまへん。親分はあいつの器量に迷わされて、鼻毛をよまれてなはるんとちがいまっか」  辰と豆六がやきもきしているうちに、三人がやってきたのは根岸の妾宅。  そのおく座敷の、お滝の殺されたへやには、いま、樽屋新兵衛と、ばあやのお紋、丁稚の長松に、役者の瀬川春之丞が、いずれも、不安なおももちでひかえている。  そして、その正面に、梓弓《あずさゆみ》をかまえてすわっているのは市子のお爪。ちぢれっ毛に、大きく星のはいった片目が、妖婆《ようば》のようにものすごい。 「やあ、みなさん、おそくなってすみません。それではお爪さん、さっそく、口寄せにとりかかってもらいましょうか」  お爪は片目で、ぎょろりと一同をねめまわすと、しずかにうなずき、梓弓をかきならしながら、小声で呪文《じゅもん》をとなえはじめる。この梓弓のうなる音が、市子の神経を神がかり状態にもっていき、そこへ口寄せの、死霊、生き霊が乗りうつるとしたものである。  梓弓のうなりはしだいにたかく、お爪はだんだん無我の境へはいっていったが、やがてぱったり弓をひざの上におくと、 「寄せくるやア、梓の弓の口寄せに、ひかれ誘われ、寄りきたわいのう……」  ぞっとするような声である。  市子をバカにしている辰や豆六ですら、ぞくりと寒気がしたくらいだから、関係者一同が、ふるえあがったのもむりはない。 「おお、おお、寄ったか、寄ったか。そして、そこへ寄ったは、おさめさんか、お滝さんか」  と、佐七は大まじめである。 「わしは市子のおさめじゃわいのウ」 「おお、おさめさんか。それじゃおまえに尋ねるが、おまえをむざんに絞め殺したやつは、いったいどこのどういうやつだ」 「くやしいけれど、わしはそいつの名を知らぬ。しかし、そいつはまだ前髪の、丁稚のような小僧であったぞいのウ」 「きゃっ!」  と叫んで、逃げだそうとしたのは丁稚の長松。  佐七はやにわに、その首っ玉をおさえつけ、 「これこれ、長松、逃げちゃいけねえ。辰、豆六、この子をおさえつけていてくれろ。もし、おさめさん、近所にお滝さんの死霊《しりょう》がいたら、ひとつおまえと代わってくんねえ」 「寄せくるやア、梓の弓の口寄せに、ひかれ誘われ、お滝の死霊が、寄りましたわいなあ」  お爪の調子が、さっきよりだいぶいろっぽくなる。 「おお、お滝さん、おまえを絞め殺したのは、いったいだれだえ」 「おお、恨めしや、憎らしや、わたしを絞め殺したのは、丁稚の長松じゃわいのウ」  長松を、左右からとりおさえた辰と豆六は、目をまるくして、お爪の顔をみまもっている。その長松とお爪の顔を、あきれかえったような目つきで見くらべているのは、樽屋新兵衛と、ばあやのお紋、さらに瀬川春之丞である。  しかし、佐七は大まじめで、 「しかし、お滝さん、おまえ殺されるまえに、男となにかあったらしいが、あいてはだれだえ」 「あいの、恥ずかしながら、それも長松……」 「冗談いっちゃいけねえ。まさかおまえがあんな子どもと……」 「いいええなア、わたしゃ春之丞さんと、忍び会うているところを、あの子にみつけられ、口止め料のつもりで、つい……そののち、あの子にせがまれるまま、ちょくちょく、会うてやっていたのに、あの子は五両の金に目がくれて、わたしを絞め殺したのじゃわいのウ。どこのおかたか存じませんが、わたしを口寄せてくださったそこのおひと、どうぞこのかたきをとってくだされ。ああ、苦しや、苦しや、耐えがたやア……」  そこまでいうと、死霊がはなれていったのか、お爪はぱったりまえにのめった。長松をみると畳に顔をこすりつけたまま、死んだように動かない。  抱きおこしてみると、口からあわをふいて、気絶していた。  長松はその後、犯行を自認したが、それは、おさめやお滝の死霊のしゃべったとおりであった。  あの日、お滝は置きごたつの掛けぶとんにも気をばり、春之丞のやってくるのを待っていたが、そのうちに雷が鳴りだしたので蚊帳をつり、線香も立て、こうして情緒纏綿《じょうちょてんめん》たる舞台ごしらえは、いよいよもって完全なものになってきたが、ただひとつの大きな誤算は、お待ちかねの春之丞はついに来たらず、かわりに、丁稚の長松がやってきたことである。  すでに関係のある長松は、ずうずうしくも蚊帳のなかへはいってくると、お滝にむかっていどみかかった。  お滝もはじめのうちは、体よくあしらっていたものの、外は大雷となってくる。約束の刻限はとっくのむかしに過ぎている。これでは春之丞とのお楽しみは、あきらめなければなるまいと、心をきめたところへ長松が、やいのやいのと体当たりで、お滝の心とからだをかきみだす。  なにしろ、お滝には、長松に秘密をにぎられているという弱みがある。そこへもってきて、春之丞に振られたのかもしれぬといういまいましさもてつだって、とうとう長じゅばんいちまいになって、お滝は長松に身をまかせた。  長松ももう十六、りっぱにおとなの代用品がつとまったうえに、ちかごろでは、お滝の薫陶《くんとう》よろしきをえて、女を夢中にさせる手腕も上達していた。  お滝はまもなく、歓喜の絶頂に押しあげられたが、そのとき漏らした身も世もあらぬ絶叫が、お滝のいのち取りになってしまった。 「春之丞さま……! 春之丞さま……!」  髪をふりみだし、息もたえだえにもだえ、のたうち、絶叫する声をきいては、長松が激昂《げっこう》したのもむりではない。  それでは、きょうじぶんの持ってきた五両という大金も、春之丞にみつぐためではあるまいかと思うと、にわかにねたましさと、憎らしさとくやしさがこみあげてきて、じぶんが思いをとげるとどうじに、まだ夢うつつでいるお滝を、うえから裸で絞めころしてしまったのである。  そして、五両の金をもって妾宅をとびだすと、お行の松の根もとへ金を埋めかくしたが、そこへだんなの新兵衛がやってきたので、あわてて辻堂へとびこんだ。  そして、だんなの立ち去るのを待っていたが、なかなか雷がやまないうえに、市子のおさめがとびこんできたので、これを殺して、じぶんのきもののうえに、おさめの衣装をかさね着して、まんまと市子に化けて逃げ出したのだ。  ところが、そこを逃げ出してから、きゅうに気がかわって、もとの妾宅へとってかえすと、みずから柱に頭をぶっつけ、額にこぶをこしらえて、じぶんでさるぐつわをはめ、手足を縛られたふりをして、押し入れのなかへもぐりこんだのである。  こうすることによって、おさめ殺しのアリバイを工作するつもりだったのだろう。  お滝殺しのほうは、情痴のはての殺人であることが、一目瞭然《いちもくりょうぜん》だから、子どものじぶんに、疑いがかかるはずはないと、たかをくくっていたというのだから、末恐ろしい子どももあったものである。 「それにしても、わずか十六の子どもがねえ」  お粂がため息をつくのをきいて、 「いや、これというのもみんなお滝が悪いのよ。まだ成熟もせぬ子どもを誘惑し、悪いことを教えこんだものだから、長松の心も駒《こま》がくるったんだな。子どもを育てるにゃ、まわりのおとなが気をつけなくちゃアね」  佐七はしみじみ述懐する。 「それにしても、親分、春之丞はまたなんで、あの日どこにいたか、ハッキリいわなんだっしゃろ」 「それはおまえ、ごひいき筋にご迷惑をかけたくなかったんだろうよ。春之丞に五両みついだのが、どこのおかみさんか後家さんか、はたまたお嬢さんかしらねえが、ただでみつぐはずはねえ。しっぽりか、こってりかしらねえが、色模様、いろいろあってのうえのこと。それが知れると、さきさまにどのような迷惑がかかるかと、それを心配したんだろうよ」 「あっ、なアるほど」  と、豆六もはじめてがてんがいったが、そのとき、辰がひざをすすめて、 「それにしても、親分、市子の口寄せって、案外バカにならねえもんですねえ。まんまと下手人を、いいあてたじゃアありませんか」  と、真顔でいうと、佐七はぷっと吹き出して、 「あっはっは、バカをいえ。あれゃみんなおれが教えこんだのよ。とんだその場のお笑いぐさだが、はっきりした証拠がねえから、ちょっと茶番をやらかしたのさ。それに乗るところが、やっぱり子どもだねえ」  佐七は腹をかかえて笑っていた。  江戸もどうやら春めいてきて、お玉が池のせまい庭にも、いちめんにかげろうがたっている。     神隠しにあった女  春色お千代舟   ——ぼちゃぼちゃの千代さんだよ  下谷御成街道《したやおなりかいどう》にあるなだいの刀屋、小松屋の手代宗七は、ある晩、ふしぎな経験をした。それはまったく、世にも奇怪な経験だった。  その日、宗七は蠣殻町《かきがらちょう》のあるお屋敷へ、刀をおさめにいったのだが、値段の点でおりあわず、持っていった刀をそのまま持ってかえる途中だった。  お屋敷へでむいたのは、夕がたの七つ(四時)ごろだったのに、むこうで、さんざん待たされたあげく、値段の点で、すったもんだとやったので、お屋敷を出たのはもう五つ(八時)過ぎ、さすがに春の日長もとっくにくれて、霊岸島《れいがんじま》から中州へかけて、春の薄やみにつつまれていた。  その晩は、月がありながら雲にかくれて、風もなんとなくなまあたたかく、みょうにわかい血をさわがせるような晩だった。おまけに、宗七はすこし酔っている。お屋敷で待たされているあいだに出た酒が、いまになって、ぽってりとからだをあたため、宗七はいっそなにやら、ひと恋しい気持ちになっていた。  しかし、それだからといって、宗七はべつにどうしようといううわきごごろがあったわけではない。小松屋のかずある手代のなかでも、わかいににあわず堅いというので、だんなの重兵衛からもとくべつに目をかけられている宗七である。 「いけない、いけない!」  と、ともすればきざしてくる邪念を追っぱらうように、宗七は足をはやめた。  だから、そのままなにごとも起こらなければ、宗七は無事に、うちへかえっていたはずだが、運命というやつはとかく、みょうないたずらをするものだ。  人形町の通りへ出ようとして、浜町|河岸《がし》を永代橋のほうへいそいでいる宗七を、くらやみのなかから、ふと呼びとめたものがある。 「にいさん、遊んでおいでなさいまし」  ふとい男の声である。 「えっ?」  と、宗七は足ととめると、あわててあたりを見まわしたが、かたがわは大名屋敷、かたがわは大川である。どこにも人影はみえなかった。 「なんだ、そら耳だったのか。だからいわないことじゃない。つまらないことを考えているからだ。つるかめ、つるかめ。さあ、いそぎましょう、いそぎましょう」  じぶんでじぶんをつよくたしなめながら、小松屋の宗七が足をはやめて、歩きだそうとする耳へ、またしても、男の声がきこえてきた。 「にいさん、こっちですよう。ほら、こっち、川のなかですよう。遊んでいってくださいよ。ぼちゃぼちゃの、お千代さんですよう」  宗七はぎょっと足をとめると、すかすようにして川の上を見る。なるほど、河岸《かし》の柳のしたに、苫舟《とまぶね》が一隻もやってあって、ほおかむりをして船頭が、こちらにむかって手招きしている。宗七はそれをみると、なんということなく、あたりを見まわした。  宗七もこのへんに、舟まんじゅうが出るということはきいていたのだ。  舟まんじゅうというのは、いちばん下等な売女《ばいた》である。売女のなかで、いちばん下等なやつは夜鷹《よたか》とされているが、その夜鷹がわるい病気かなんかで足腰が立たなくなると、それを舟にのっけて春を売らせる。それを舟まんじゅうといって、そういう舟をお千代舟とよんだ。  なるほど、そうきけば、夜鷹よりいっそう下等なわけだが、なかには、夜鷹の廃物ばかりではなく、まれには逸物もあったという。  それはさておき、あいてがお千代舟だとわかると、宗七のひざがしらは、にわかにガタガタふるえてきたが、口がからからにかわいてくる。  かたいといっても二十三、まんざら遊びをしらぬわけではない。朋輩《ほうばい》や、お出入りさきのだんなにさそわれて、吉原《よしわら》や品川であそんだ経験はもっている。じぶんでこっそり、夜鷹を買ったこともある。それに、こんやはさっきから、みょうにからだがうずくのだ。お店者《たなもの》としては宗七は、かたぶとりのした、たくましい、よいからだをしている。  しかし、宗七は思いなおした。 「せっかくだが、まあ、よそう、おしろいでしわをぬりつぶしたような女を、買ったところではじまらない。まあ、ごめんこうむろうよ」 「冗談じゃない。おまえさんはなんにも知らないから、そんなもったいないことをいっているんだが、ここにいるお千代さんは、まだ生娘ですぜ」 「あっはっは、バカもやすみやすみいうがいい。舟まんじゅうに生娘があってたまるもんか。こちらが若いといって、バカにするのもいいかげんにしとおくれ」 「うそだと思うんなら、いちど遊んでごらんなさい。こんやがちょうど初見せの、それこそ、ぼちゃぼちゃのお千代さんだ」 「そ、そんなバカな!」 「そんなにいうなら、ひとつ顔をおがませてあげよう。これ、これ、お千代さんや、にいさんにちょっとそのきれいな顔を見せてあげな」  苫《とま》のなかでさやさやと、きぬずれの音がしていたが、女の姿はあらわれなかった。 「これ、なにをしている。にいさんがきついご所望だ。顔をみせろといえば、みせねえか」  しかりつけるような船頭の声に、苫のなかでまた、さやさやときぬずれの音がした。それからそっと恥ずかしそうに女が上半身をあらわした。あいにくの、春のおぼろのうすくらがり。それに、手ぬぐいを吹き流しにかぶっているので、目鼻だちまではわからないが、におうような白い顔、羞恥《しゅうち》のためにふるえているぽっちゃりとした肉づき、生娘かどうかは疑問としても、わかい女にはちがいない。  宗七はちょっと胴ぶるいをすると、おもわずぐっとなまつばをのみこんだ。 「それ、お千代さん、さっき、教わったとおりやってみるんだ。おまえの口から、にいさんにおねがいするんだ。そしたら、このにいさんが、かわいがってくださるとよう」  船頭の声にうながされ、 「あの、にいさん、おねがいですから、ちょっと寄っていってくださいな」  蚊のなくような声である。かつまた、吹き流しのしたからのぞいている双のひとみが、星のようにまたたいているのをみると、宗七のわかい血がカーッともえた。 「ようしッ、あそばせてもらうぜ」  宗七はふらふらっと、身も魂もひきずりこまれるように、舟のなかへのりこむと、女の手をとって、くらい苫屋《とまや》のなかへはいっていった。 「あっはっは、にいさんは果報者だ。その妓《こ》は正真正銘、まだ手入らずのき娘だ。しかも、その妓にとっちゃ、はじめての客ですからね」  船頭はわらいながら櫂《かい》をとって、ゆっくり舟をこぎはじめた。こんなばあい、舟は中州をひとまわりすることになっていて、そのあいだが、客にあたえられた時間になっているのである。  苫屋のなかは、すわっていても頭がつかえそうな窮屈さである。むろん、あかりなどという気のきいたものが、ついているはずはないから、なかへはいってしまうと、鼻をつままれても、わからぬような暗さである。  それでも、せんべいぶとんながら、ふとんが敷いてあるらしいことだけは、手ざわりでわかった。宗七はそのふとんの上にあぐらをかくと、すばやく、帯をとき、女の肩に手をかけて、ぐいとこちらへ引きよせた。 「あれえッ!」  はずみをくらって、女は宗七のひざのうえに、しなだれかかるように倒れてきたが、そのからだは石のようにかたくこわばっており、しかも、しくしくと泣いている。 「これ、なにを泣くんだ。この期におよんで。な、なにをそんなに泣いているんだ」  宗七は女のからだを、ひざの上へだきあげると、やにわにうちぶところへ手を差しいれた。女はあいかわらずしくしく泣きながら、さりとて、宗七の手をこばもうともしない。男のなすがまま身をまかせている。しかし、耳ざわりなのは、しくしくと嗚咽《おえつ》する声である。  とうとう、宗七はかんしゃくを爆発させた。 「いいかげんにしねえか。おまえがいかにしおらしくもちかけたって、だれがおまえを生娘だなんて、まにうけるもんか。舟まんじゅうなら、舟まんじゅうらしくしたらどうだ」  おもわず声がたかくなったから、そとの船頭に聞こえたらしい。船頭はあっはっはと笑うと、 「にいさん、にいさん、その娘はほんとうに生娘なんですぜ。しかし、にいさんに身をまかせる気になってるんだから、ひとつ、しっぽりかわいがっておやんなさい」  そのあとへ、またあざけるような高笑い、あっはっはという傍若無人の声がつづいたから、宗七はとうとう怒り心頭に発して、 「バカにするない、だれがおまえらにだまされるもんかい。だれが、おまえらにだまさせるもんかい」  と、やにわに、女をそこへ押しころがすと、全身の怒りをこめて、その上におしかぶさっていった。それでも女は、ただかすかな悲鳴をあげただけで、土かどろでつくった人形のように、身をかたくしていた……。  そういう宗七だったのだが、舟がゆっくり、中州のまわりをひとまわりして、もとの浜町|河岸《がし》へもどってくるころには、まるで魂を抜かれたようになっていた。  まったく、かれはふしぎでならない。  ひょっとすると、この女は、さっき船頭がいったとおり、ほんとに生娘だったのではあるまいか。もし、そうだとすると、じぶんはたいへんな罪をつくったのではなかろうか。  もし、この女がはじめのころ、ほんとに生娘であったとしても、おわりのころにははっきりと、女であることをしめしてくれた。  宗七の腕にだかれた女は、宗七の興奮がたかまるにつれて、しだいに、われを忘れてとり乱し、はては、力いっぱい宗七のからだを抱きしめると、身をそよがせてあえぎにあえいだ。さっきの羞恥《しゅうち》がうそのように、女であることの喜びを、ろこつに表現してはばからなかったばかりか、女のすべてをささげて、おしむところがなかった。それはまるで、堰《せき》を切っておとした激流のようなものであった。  宗七はこの激流のなかに棹《さお》さして、浮きつ沈みつ、内心のよろこびをかみしめながら、二度、三度、女をつよく抱きつづけたのだが……。  宗七がほっとわれにかえったのは、よほどたってからのことである。つよい抱擁からやっと解放してやると、女はまだ見果てぬ夢をおうように、ぐったりと目をとじたまま、あらい息づかいをととのえていた。  このときである。たいへんな罪つくりをしたのではないかと、宗七が気がついたのは。  いったい、こういう売女というものは、男にからだを提供し、男にすきかってなまねをされても、じぶんは思いをほかに転ずることを、しっているものである。そうでなければ、一夜に、いくにんかの男に抱かれる身がもてない。  だから、彼女たちは、男がかってに興奮し、かってに歓喜の絶頂に到達しても、じぶんはすずしいかおで、おのれを制することができるように、訓練されているものである、彼女たちの発するあえぎや、息づかいや、身のそよぎは、すこしでもはやく男を喜悦の頂上に、みちびくための作為にすぎない。  しかし、いま宗七のそばに、息もたえだえによこたわっているこの女だけはちがっていた。  すべてがほんものであった。あの絶えいるような息づかいも、よじれんばかりの身のそよぎも、はては堰《せき》を切っておとしたような奔流も……そういえば、さいしょに発した苦痛の悲鳴も、見せかけではなかったようだ。  宗七はまるで夢に夢みる気持ちで、女になにかきこうとして、もういちど、背中に手をまわそうとしたとき、 「にいさん、着きましたぜ」  船頭にうながされて、宗七はあわてて帯をしめなおすと、苫屋《とまや》からそとへ出ていったが、あとに心ののこるのは、どうしようもなかった。女もおなじ思いだったのか、おおいそぎで、きものの乱れをととのえると、苫屋から上半身をのぞかせて、 「もし、にいさん」 「えっ」 「ご縁があったら、またいつか……」  涙にうるんだ声をかけたが、そのとき、吹きおろしてきた川風が、女のかぶった手ぬぐいのはしをさっと吹きあげた。しかも、ちょうどそのとき、雲をはなれた月の光が、まともに女の顔を照らしたのである。  宗七ははじめて、はっきり女の顔をみたが、そのとたん、のけぞらんばかりに驚いて、 「あっ、あなたは宝屋のおふくさま……あの、神かくしにあわれたお福さま!」 「しっ、しまった、ちくしょうッ、ちくしょうッ、こいつ、しってやアがったのか」  船頭はやにわに女を苫屋のなかへつきもどすと、櫂《かい》とりなおしていちもくさん、春の夜のやみはあやなし、みるみるうちに水のうえを、遠く、はるかに消えていった。  ぼうぜんとして、それを見送っていた宗七が、舟のなかへだいじな刀、備前|長船《おさふね》をおきわすれたのに気がついたのは、それからよほどたってからのことである。  宝屋の姉妹   ——姉のお蝶《ちょう》は女中の子なんです 「——と、そういうわけで、これがゆうべ買ったその舟まんじゅうの女というのが、宝屋の妹娘、お福だった、いや、お福にちがいないというんです」  と、そうきり出したのが、小松屋のだんなの重兵衛《じゅうべえ》、うしろには手代の宗七も、よいあとはわるいで、あおい顔をしてひかえている。  それは宗七が、あのふしぎな経験をした翌日のこと。  宗七から話をきいた重兵衛は、すててはおけぬと宗七ともども、神田お玉が池は佐七のもとへ、相談にやってきたのである。  佐七はおもわず目をみはって、 「それゃア、しかし、ほんとのことですかえ。夜目遠目|傘《かさ》のうちというが、ひょっとすると、他人のそら似じゃアありませんか」 「いいえ、たしかにお福さまでございました」  と、宗七はめんもくないやら、恥ずかしいやらで、額に汗をかきながら、 「げんに、わたしがお福さまと声をかけると、むこうでもびっくりしていらっしゃいましたし、船頭もたいそうおどろいて、むりやりにお福さまを苫《とま》のなかへおしこむと、逃げるようにこいでいってしまったのでございます」  佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせる。 「そういうわけで、宗七は、しらぬこととはいいながら、主人もどうぜんな宝屋の娘とそんなことをしたかとゆうべから、夜の目もねむれぬくらい、心配しているんです」 「あの、ちょっと……宝屋のお嬢さんが、主人もどうぜんとおっしゃいますのは……?」 「ご存じじゃありませんか。宝屋の家内のお常というのは、わたしのじつの妹なんです」  佐七はそれをきくと、また目をみはって、 「それはそれは……それじゃ、さぞご心配なことでございましょう。ときに、お福さまが神かくしにあわれたというのは、いつのことでございます」 「あれはひな祭りの晩のことでしたから、きょうで、ちょうど十日になります」 「さっきのお話では、たしかお友だちのところへよばれておいでになって、それっきり、おゆくえがわからなくなったのでしたね」 「はい。大伝馬町の駿河屋《するがや》さんへ招かれていったんですが、六つ半(七時)ごろそこを出たっきり、ゆくえがわからなくなってしまったんです」 「どなたもお供はなかったんで」 「はい、いつもならば、女中が供につくはずでしたが、あいにくその日は、姉娘のお蝶《ちょう》が持病の発作をおこしまして、家じゅうまぜくりかえしていたものですから……駿河屋さんのほうでも、だれかに送らせようといってくださったそうですが、近くのことだからそれにはおよばぬと、お福のほうでことわって、ひとりで出たそうですが……」  重兵衛はふかぶかと首うなだれて、ほっと暗いため息をついた。  宝屋というのは久松町の刀屋だが、このほうは、小松屋とちがって新刀ばかり、どちらかというと、町人あいての安物専門の店だが、こういう店のほうがかずでこなすから、かえって利益があるとみえて、小松屋にもおとらぬ身代である。  その宝屋の妹娘のお福というのが、十日ほどまえに、神かくしにあったといううわさは、佐七もかねてから耳にしていた。  神かくしというのは、とつぜんゆくえ不明になることで、むかしはよく、てんぐがさらっていくなどといったものだ。いまのことばでいえば、さしずめ蒸発というやつだろう。 「すると、宝屋のお福さまは神かくしにあったのじゃなく、悪者にかどわかされて、舟まんじゅうに売られているというんですね」  重兵衛はくらい顔をしてこたえなかった。  佐七はそこでひざをすすめると、 「ねえ、だんな、宝屋さんではだれかに、うらみでもうけるようなおぼえがございますんで」 「さあ、そのことなんですが……」  重兵衛がおもい口でいいにくそうにうちあけた話というのはこうである。  宝屋のあるじ、太郎右衛門《たろうえもん》には娘がふたりある。姉をお蝶、妹をお福といって、十八と十七のひとつちがい、つまりとし子である。世間でも当人たちも、ほんとの姉妹と思いこんでいるが、じつはこのふたりは腹ちがいであると重兵衛は打ちあけた。 「姉のお蝶というのは、太郎右衛門が、わかいころお吉という女中に手をつけてうませた子どもなんです。そのじぶん、お常がかたづいて七年にもなるのに、いっこう子どもがうまれるけはいもないので、お常がその子をひきとって、じぶんの子どもにしたんです。ところが、よくあることで、お蝶をひきとるとまもなく、お常がみごもり、翌年うまれたのがお福なんです」  したがって、ふたりは腹ちがいだが、ふしぎにもこの姉妹、うりふたつほどよくにていて、げんざいの親たちでも、とりちがえることがあるくらいだから、世間でもほんとの姉妹と思いこみ、当人たちも、そう信じきっているそうである。 「わたしの口から申すのもなんですが、お常というのがまことによくできた女で、腹はだれにしろ、お蝶は太郎右衛門どのの総領娘にちがいないから、ゆくゆくはそれに養子をとって、宝屋のあとをつがせると申しておりました。ところが、ふしあわせなことには、そのお蝶、去年、大患いをいたしまして、高熱が半月あまりもつづきましたが、それが直ったかとおもうと、頭がすこしおかしくなったのでございます。なにかこう、ぼんやりしてしまって、とりとめがなくなってしまったのでございます」  お蝶の病気は、いまのことばでいえば脳膜炎だろう。それまでは目から鼻へぬけるようなりこうな娘だったのに、大患いをしてからは、白痴にちかい娘になってしまった。 「お常もこれには胸をいためましたが、そこへ、おりもおり、ことしの春になって、お蝶のじつのおふくろが、かえってきたんです」 「かえってきたとおっしゃいますと、お蝶さんのおふくろさんは、どこか遠いところへでもいってらしたんですか」 「それが……」  と、重兵衛はいいにくそうに、 「お蝶の母のお吉というのはわるい女で、宝屋へ女中にすみこんだのも、はじめからその下心があったんです。女中にすみこんでは、主人とひっかかりをつけ、それをたねにゆするんですね。ええ、もうそのじぶん、しょっちゅうそういうことをしていた女で……それで、そのときもそうとう手切れ金をとってわかれたんですが、そのごも悪事がかさなったのか、とうとう島送りになったんです」  この思いがけない打ちあけ話に、佐七はおもわず辰や豆六と顔見合わせる。 「はい、そういうことがありますんで、いっそうお蝶の素性をかくしていたんですが、そのお吉がこの春、おかみのご慶事につき、お赦《ゆるし》にあってかえってきたんです。そういう女でも、やっぱりわが子はかわいいとみえ、うみの子のお蝶がバカになったときくと、たいそうくやしがりまして、これもきっとおかみさんが、毒かなんか盛ったにちがいない。いまにきっとこの返報はしてみせると、宝屋へどなりこんできたことがございますそうで。お福が神かくしにあったのは、それから十日ほどのちのことでした」  はじめてきいた宝屋のうちまくに、佐七はおもわずかたずをのんだ。 「すると、お福さまをかどわかしたのは、お吉という女だとおっしゃるんで」 「そうじゃないかと思います。お蝶がすたれものになったのを、いちずにお常のしわざとおもいこみ、その返報にお福をかどわかし、そんなあさましい稼業《かぎょう》をさせているんじゃないかと……お吉なら、やりかねない女でございますから……」  重兵衛はあまりのあさましさに、たまりかねたようにまぶたをおさえる。なににしても奇怪な話だ。佐七もいたましそうに顔をしかめていたが、きゅうに思い出したように、宗七のほうをふりかえり、 「ときに、宗七さん、その船頭というやつだが、いったいどんな男でしたえ」 「さあ、なにしろ暗がりのうえに、ほおかむりをしておりましたので、はっきりとは申せませんが、としごろは四十前後、右のほおに大きな切り傷があったようでございました」 「おまえさん、その舟に備前長船を忘れてきなすったというんですね」 「はい、重々のぶちょうほうで……」 「だんな、その刀が出てきたら、おわかりでございましょうねえ」 「はい、それはもちろん」 「ようがす。とにかく、なんとかして、その舟というのを捜してみましょう」 「なにぶん、よろしくおねがいいたします。ただこのうえのおねがいは、このことを、宝屋の耳にいれないように。娘がそんなあさましい稼業《かぎょう》をしているときけば、妹も太郎右衛門も、どんなに心をいためますことか……宗七にも、これだけはかたく口止めしてありますんで」 「ごもっともで。なに、だれにもしゃべりゃアしませんから、どうぞご安心なすって」  お蝶狂乱   ——ときどきああしてあばれるんです 「親分、いまの話、ほんとうでしょうかねえ」  重兵衛と宗七がかえったあとで、辰はなんかふにおちぬ顔色である。 「どうして?」 「だって、舟まんじゅうを買ってみたら、それが主人の姪《めい》だったなんて、話があんまりできすぎてるじゃアありませんか」 「そや、そや、わてかてそう思いますわ。宗七のやつ、舟まんじゅうにうつつをぬかして、だいじな刀をわすれたその言いわけに、神かくしになった娘のことを、かつぎ出しよったんとちがいまっしゃろか」 「いや、宗七のあの顔色では、そんな筋が書けるたア思えねえ。ただ、ふしぎなのはお福という娘だ。いかにお吉や相棒におどしつけられたとはいえ、そんなにむざむざ、あさましい稼業をするというのがおかしい。助けを呼ぶとか、ひとこと客に耳打ちするとか、なんとか方法がありそうなもんじゃねえか」 「だからさ、やっぱりそれはお福じゃねえんですぜ。宗七のやつがてれかくしに、そんなべらぼうな話をでっちあげやアがったにちがいねえ」 「どっちにしても、ただの神かくしでないとわかれば、捨ててはおけねえ。辰、豆六」 「へえ、へえ」 「おまえたち手わけして、ひとつ心当たりのほうがくから洗ってみてくれ」 「心当たりのほうがくって、親分、どこから手をつけていけばいいんで」 「本所の吉田町《よしだちょう》に夜鷹《よたか》の巣がある。舟まんじゅうもたいていあのへんから出るようだから、おまえたちいって、右のほおに刀傷のある船頭に、心当たりはねえかきいてみろ」 「おっと合点です。それからほかに……」 「馬道のからすの平太のところへいって、ちかごろ島からかえってきたやつに、右のほおに刀傷のある男はねえか、あたってみろ」 「おっと、わてもそれを考えたとこだす。そんなら、兄い、いきまほか」  からすの平太というのは、むかし悪党なかまで鳴らした男だが、いまでは足をあらって、一種の諜者《ちょうじゃ》のようなことをしている人物。  そこへいけば、凶状持ちの動静は、たいていわかることになっているから、御用聞きなかまでは、ちょっとちょうほうな存在になっている。  こうして、辰と豆六が出かけたあとで、佐七は女房のお粂にむかい、 「お粂、おまえにもひとつ頼みがある」 「あい、あたしになにかご用かえ」 「なに、ご用というほどのことじゃねえが、うちへまわってくる女髪結いのおせんは、たしか大伝馬町のほうも、おとくいにしていたな」 「あっそうそう、あたしとしたことが忘れていた。おせんさんはたしか、駿河屋さんのお出入りだよ。いつかもじまんしてたっけ」 「そいつは好都合だ。それじゃおまえ、これからおせんのところへ出向いていって、ひな祭りの晩、駿河屋へ招かれていったお福の様子に、なにか変わったところはなかったか、ふだんと様子が違ったところはなかったか、そこんところを、なるべく詳しくきき出してくれるように頼んでくれ」 「そのおせんさんなら出向くまでもない。きょううちへまわってくるはずだが、しかし、おまえさん、駿河屋さんになにか……」 「なに、そうじゃねえが、お福という娘もおかしいじゃねえか。大伝馬町から久松町といえば、目と鼻のあいだだ。それに六つ半(七時)といえばまだ宵《よい》の口、あのへんはにぎやかな場所だのに、どうしてむざむざ、かどわかしになどかかったのか……それについて、駿河屋にいるあいだに、なにか変わったことはなかったか、そこんところをきいてみてくれ」 「あいよ。それくらいのことならわけはない。ときに、おまえさんは……」 「おれはちょっと、久松町までいってみる」  と、それからまもなく久松町の宝屋のちかくまできてみると、そのへんいっぱいのひとだかり。みると、髪をふりみだしたわかい娘が、気ちがいのようにあばれまわっているのを、乳母《うば》だの、女中だの、お店者《たなもの》らしい若者だのがとめている。  佐七はまゆをひそめて、 「あれゃいったいどうしたんです」  そばにいる男にきくと、 「あれはむこうの宝屋の姉娘で、お蝶さんというんです。いぜんはしごくおとなしい娘でしたが、去年、大患いをしていらい、頭がおかしくなって、ときどき、ああしてあばれるんです」  佐七はそれをきくと、はっと娘の顔をみなおした。  お蝶はとびきり美人というのではないが、色白のぽっちゃりとして肉づきのいい、いうところの人好きのする顔だちである。  そのお蝶は、なるほど逆上しているらしく、目にいっぱい涙をうかべ、なにかわけのわからぬことを口走っていたが、やがて奉公人たちにひきたてられて、宝屋の勝手口からなかへつれこまれた。  佐七はほっとため息をつきながら、宝屋のまえをとおりかかったが、すると、なかからとび出してきた番頭らしいのが、 「もし、親分、おまえさんは、お玉が池の親分さんじゃございませんか」 「はい、あっしは佐七だが、なにかご用で」 「だんながおりいってお願いしたいことがあるとおっしゃってでございます。おそれいりますが、ちょっとお立ち寄りねがえませんか」  佐七にとっては、それこそ渡りに舟である。無言のまま、番頭のあとからついていった。  お福の手紙   ——こともあろうに舟まんじゅうに  宝屋のあるじ太郎右衛門は、どっしりとした、恰幅《かっぷく》のいいだんなだが、姉娘の病気、妹娘の神かくしと、うちつづくふしあわせに、めっきりと年をとっている。おかみさんのお常も、心痛にやつれた顔に、頭痛膏《ずつうこう》の白梅をはって、あおい顔をしていた。 「親分、おまえさんはひょっとすると、うちの妹娘のお福が神かくしにあったという話をおききになっちゃいませんか」 「へえ、その話ならきいておりますが……」 「ところが、親分、そのお福がこともあろうに、舟まんじゅうというあさましい稼業をやらされているという話があるんです」  佐七はおどろいて、太郎右衛門の顔をみなおした。 「どこから、そんな話がお耳にはいりましたか」 「この町内の鳶《とび》のもので、紋次というのが、ゆうべ箱崎橋のきわで見かけたというんです」 「まさか紋次はその女を……」 「いや、はじめから遊ぶつもりはなかったそうですが、箱崎町の河岸《かし》っぷちを歩いていると、お千代舟の船頭によびとめられた。そこで、顔だけでもみてやろうと、玉をみせろといったところが、苫《とま》のなかからでてきたのが、お福だったというんです。なんでも、その河岸っぷちに常夜灯が立っていたので、はっきり顔がみえたそうで。それで、紋次がおもわず、おまえは宝屋のお福さん、と声をかけると、船頭がびっくりして、女を苫のなかへつきとばし、そのまま、逃げてしまったというんです」 「それはゆうべの何刻《なんどき》ごろのことなんで」 「なんでもまだ宵《よい》の口の、六つ半(七時)ごろのことだったそうで」  小松屋の宗七が、お福らしい女を抱いてねたのは、五つ(八時)過ぎというから、それでは、それよりまえのできごとだろう。  それにしても、せっかくそのことをないしょにしている重兵衛の苦心もこれでは水のあわである。太郎右衛門夫婦は涙にむせびながら、 「親分さん、わたしども夫婦の心中お察しください。そんな話をきいては、いても立ってもいられません。親分、なんとかしてください」  お常はこらえかねたように、わっと泣きふす。 「それゃアもう、あっしだって十手|捕縄《とりわな》をあずかる身、そんな話をきいちゃ、じっとしてはいられません。ときに、だんな、へんなことをおききするようだが、こちらのお嬢さんのうち、お蝶さんというのは、おかみさんのおなかじゃないそうですね」 「親分はどこから、そんなことを……」 「いえ、それはいえませんが、なんでもお吉という女が、お蝶さんがあんなになったのも、おかみさんがいっぷく盛ったせいだというんで、あばれこんだそうじゃアありませんか」  太郎右衛門はため息をついて、 「お常がいっぷく盛ったなどとは、とんでもない。これはじぶんが腹をいためたお福よりお蝶のほうをかわいがっておりましたのに、おのれのねじけた根性から、あいつがへんに疑ってあばれこんできたおかげで、いままでかくしていたことが、万事明るみにでてしまって……」 「それじゃ、お蝶さんやお福さんも、そのことをお知りになったんですね」 「お蝶はあのとおりですから、どうかわかりませんが、お福は気がついたようです」 「さっき表で、お蝶さんをお見かけしましたが、ときどき、あんな発作をおこされるんで」 「いえ、あんなことはめったにないんですが、きょうは妹のお福が、舟まんじゅうに売られたということを、うっかり乳母《うば》がしゃべったもんだから、あんなことになったんです」 「すると、ああなっていても、お福さんのことは心配しているんですね」 「それはそうでしょう。とてもきょうだい仲がよかったんですから。それに、だいいち、ふたごのようによく似ているもんですから、いままでだれも、腹ちがいなどとしるものはなかったんです」 「ときどき、ご両親でもとりちがえたとか」 「はい、ふたりがわざといれかわって、わたしどもを、からかったりするんです。ただ、姉のお蝶には左の腕にぼたん形のあざがあって、それでやっとけじめをつけるんです。ほんとにお蝶はおふくろに似合わぬ気だてのやさしい娘でしたが、なんの因果かあんな病気になって……」  さすが豪気の太郎右衛門も、たまりかねたように涙をおさえたとき、あわただしくとびこんできたのは、お福の乳母のお島である。 「これ、お島、どうしたものだ、お蝶になにか、かわったことでもあったのか」 「はい、あの、お蝶さまの寝床のしたから、こんなものが出てまいりまして……」  お島が差しだす一通の手紙を、太郎右衛門はふしぎそうに手にとったが、読んでいくうちに、みるみる顔色がかわってくる。 「親分、これを見てください。これゃまあ、いったいどういうわけでしょう」  見ると、それはうつくしい女の筆で、 [#ここから2字下げ] わたしのこと、くれぐれもご心配なさるまじく、もう十日もたてば、無事におうちへかえれるはずゆえ、かねてよりのお約束のこと、かたくお守りくだされたく候《そうろう》  三月十日  お福より  姉上様 [#ここで字下げ終わり] 「これゃアお福さまからお蝶さまにあてた手紙、十日といやアさきおととい、お蝶さまはいつだれから、こんな手紙を受け取ったんです」 「さあ、それがわたしどもにもいっこうに……」  乳母のお島はおろおろしていて、なにをたずねてもはっきりしない。 「それにしても、かねてよりの約束というのは、なんのことでしょう。また、お福さまの名まえと、姉上様というところにわざわざ三重丸がつけてあるのは……」  佐七はお蝶の病室へおもむいて、それについて問いただしてみたが、雨戸をしめきったくらい座敷のなかで、お蝶はただとりみだして泣くばかりで、なにをきいても要領をえなかった。  ほおに傷のある男   ——首をくくってわたしは死にます 「おまえさん、さっき髪結いのおせんさんがきたので、あの話、きいてみましたよ」  夕がた、佐七が家へかえってみると、お粂が結いたての大丸髷《おおまるまげ》をほこらしげにしめしながら、髪結いのおせんからきいた話というのを語ってきかせた。 「駿河屋さんの娘さんは、お久さんというんだそうですが、お福さんが神かくしになってから、おせんさんがいくと、こんなことをいってたそうです。あの晩、お福さんの様子がへんだった。みょうにしずんで口数もすくなく、まるで借りてきたねこみたいに、薄暗い座敷のすみへ、すみへと、寄っていたというんだそうです」 「なに、うすぐらい座敷のすみへ、すみへと……」 「ええ、だから、あのじぶんからお福さんには、魔がさしていたんだろうと、お久さんがいってたそうです。おまえさん、これくらいのことしかきけなかったんだけど、いいかしら」 「けっこうけっこう、上できだ」  佐七は無言でかんがえこんだが、やがて夜になってから、辰と豆六がかえってきた。 「親分、吉田町のほうはむだでした。だれもそんな船頭に心当たりはねえそうです」 「すると、やっぱりもぐりだな。ところで、馬道のほうはどうだ」 「へえ、こっちは目鼻がつきました。それゃ不知火権三《しらぬいごんざ》にちがいないというんです。そいつはなんでも浪人者のせがれだそうですが、小さいときから身をもちくずし、悪事をかさねたあげくが、いまから十年ほどまえに、どこかへ強盗にはいったところを捕えられ、あやうく笠《かさ》の台がとぶところを、死一等減じられて、島送りになったやつだそうです」 「なるほど。そうすると、そいつも島からかえったばかりなんだな」 「さよ、さよ。きっと、島にいるあいだに、お吉のやつとねんごろになり、いっしょにかえってきて片棒かついでいるんだっしゃろ」 「それで、ふたりの居どころは……」 「さあ、そこまでは平太もしらねえんですが、なに、あいつによく頼んできましたから、だいじょうぶ、遠からずわかりましょうよ」  辰はのんきなことをいっているが、そんな悠長《ゆうちょう》なことをいっている場合ではない。一日のびれば一日だけ、お福のからだに垢《あか》がつくのだ。  佐七はなんともいえぬあせりをおぼえたが、五つ(八時)ごろになって、ころげるように表からとびこんできたものがある。 「おっ、おまえは小松屋の宗七さんじゃねえか。血相かえて、ど、どうしたんだ」 「親分、親分、いま柳原土手で、ゆうべの船頭が、わたしをとらえて……」 「なに柳原土手でゆうべの船頭にあったのか。それ、辰、豆六」 「おっと、合点だ」  ふたりが鉄砲玉のようにとびだしていったあとで、宗七が不審そうに首をかしげながら語るところによるとこうである。  さっき宗七が、柳原土手をとおりかかると、さっきからあとをつけていたらしい男が急につかつかちかよると、 「おい、若いの。ちょっとおまえに話がある。そこまで顔をかくしてくれ」  ぎょっとして振りかえると、まぎれもなくゆうべの船頭、ほおかむりの下から、すごい目を光らせながら、横っ腹に匕首《あいくち》をおしつけた。 「なにもこわがることはねえ。おめえをどうしようというんじゃねえんだ。ちょっとききてえことがあるから、土手のうえまできてくれ」  宗七が度胸をきめて土手へあがると、男がへんなことをききだした。 「ききてえとはほかでもねえ。ゆうべおまえの忘れた刀は、いったいどこから出たんだ」 「は、はい、あれはうちのだんなの秘蔵の品ですが、お出入りさきの御前が、ぜひ見せてほしいとおっしゃるので、ゆうべ持参したんです」 「おまえのうちはどこだ」 「御成街道《おなりかいどう》の小松屋です」  小松屋ときいて、あいてはしばらくだまっていたが、 「それじゃ、あれは小松屋のだんなの刀か」 「いえ、だんながどなたからかお預かりの品だそうで、そのかたに、おかえししなければならないんです」 「しかし、ゆうべおまえはその刀を、売りにいったんじゃねえのか」 「いいえ、御前のたってのご所望ゆえ、お目にかけはいたしましたが、わざと法外の値段をつけて売れぬように取り計らったんです」  男はまたしばらくだまって考えこみながら、宗七の顔をみていたが、 「ときに、おまえはゆうべの女を知っているらしいが、どういうかかりあいがあるんだ」 「はい、あのかたはうちのだんなの姪御《めいご》さんでいらっしゃいます」 「な、な、なんだって!」  男はのけぞるばかりおどろいて、 「でも、あれゃ宝屋の……」 「ですから、宝屋のおかみさんは、うちのだんなのお妹さんになるんです」  男はほおかむりの下から、食いいるような目で、宗七の顔をみつめていたが、 「そ、そうだったのか。知らなかった。知らなかった。しかし、それじゃてめえは、主人の姪をおもちゃにしやアがったんだな」 「は、はい、それですから、わたしは今夜、ここへ首をくくりにきたんです」  男はそれをきくと、ぎょっとしたように、宗七の顔をみつめていたが、 「よせ、死ぬのはよせ。知らなかったんだからしかたがねえ。それより、おまえはあの女をお福とよんだが、ひょっとすると、あれは姉娘のお蝶のほうじゃねえのか」 「な、な、なんですって!」 「まあ、いい。心配することはねえ。お蝶にしろ、お福にしろ、きっとおれが助けてやる。おまえかえって、だんなにこのことをいえ」  それだけいうと、ほおに傷のあるふしぎな男は、身をひるがえして、こうもりのように、やみのなかに消えていったのである……。  宗七からいまのような話をきくと、佐七はおもわず目をまるくして、 「すると、そいつはおまえさんのおき忘れた備前長船《びぜんおさふね》を知っているのかえ」 「そうらしゅうございます」 「それから、ゆうべの舟まんじゅうだが、おまえはどう思うんだ。お蝶さんか、お福さんか……」 「さあ、わたしにもよくわかりませんが、神かくしにあったのはお福さま。それに、お蝶さまは気がくるって、うちにいらっしゃいますから……」 「そうか、よし、わかった。それじゃ、おまえ、これから小松屋へかえって、だんなに久松町までおいでくださるようにいえ、けっして、死ぬなんぞという了見をおこすんじゃねえぞ」 「は、はい……」  宗七が悄然《しょうぜん》としてかえっていったあとへ、辰と豆六がぼんやりかえってきた。 「親分」 「権三のすがたが見えなかったんだろう。まあ、いいや、おれゃこれから宝屋へ出向いていくから、おまえたちもいっしょにこい」  因縁の長船   ——宗七つぁんのほかはきれいなからだ 「親分、ここへこいとのおことばゆえまいりましたが、なにかご用でございますか」  そこは宝屋のおく座敷である。佐七を中心として、重兵衛と太郎右衛門夫妻、ほかに宗七が、あおい顔をしてひかえている。  辰と豆六のすがたはみえなかった。 「いや、そのまえに、だんなにお尋ねしてえことがあるんですが、ゆうべ宗七さんが船におき忘れた備前長船、あれにゃいったい、どういういわくがあるんです」 「ああ、それなら、親分、きいてください。あれにはこういう話があるんです」  いまから十年ほどまえ、小松屋へ三人組みの強盗が押しいったことがある。  強盗は抜き身でおどかし家人をしばりあげると、仕事にかかろうとしたが、さいわい丁稚のなかにひとり、機転のきいたのがあって、すばやく家をぬけ出して、自身番へ注進したので、強盗はその場を去らず、ひとりのこらず取りおさえられたのである。  さて、その取り調べのさい、重兵衛はつぎのことをいい張った。  強盗ははじめから、刀をおびてきたのではなく、家人をおどしつけた刀は、みんなうちの商売物で、とっさにそれを腰にさしたのだと。  つまり、それは重兵衛のなさけであった。  はじめから刀をおびて押しいったとなると、いわゆる持凶器強盗で、罪もおもく、とうてい死罪はまぬがれぬ。しかし、そこにあった刀でおどしたとなると、たんなる押し込み強盗で、これだといくらか罪も軽くなるのだ。おかげで三人の強盗は死一等を減じられ、島送りとなり、刀は小松屋のものとして下げわたされたのである。 「わたしはけっして刀がほしくて、そんな申したてをしたわけではなく、三人の命をすくいたい一心でしたが、あとで下げわたされた刀をみると、二本はどうにもならぬなまくらでしたが、一本は備前長船の上作じゃございませんか。わたしもびっくりしましたが、いずれ島からかえってきたら返してやろうと、研《と》ぎにかけて、だいじにしまっておいたんです」 「いや、それでよくわかりました。ときに、だんな、そのときの三人の強盗のなかに、権三という男はいませんでしたかえ」 「はい、たしか不知火《しらぬい》という異名があり、右のほおに大きな刀傷……」  といいかけて重兵衛はぎょっと息をのみ、 「あっ、そ、それじゃ、ゆうべ宗七が出あった船頭というのは……」 「そう、その権三なんですよ。だんな、善根はほどこしておくもんです。お蝶さん、いや、お福さんも助かりましょう。ただ、こんやひと晩がだいじなところで……」 「こんやひと晩とおっしゃいますと……」 「お吉のやつがこんやここへ忍んできやアしないかと思うんです」 「お吉がなにしに……」 「離れに寝ていらっしゃるお福さん……いいえ、お蝶さんの命をとりに……」 「な、な、なんですって」  太郎右衛門はびっくりして、 「お吉がなんで、じぶんの娘を……」 「まあ、なんでもようがす。おかみさん、行灯《あんどん》の灯《ひ》を消してください。網を張るにゃ、あいてがとびこみいいようにしてやらねばなりません」  お常が不安そうにあかりを消すと、家のなかはまっくらである。 「みなさん、ようがすかえ。こうなると根くらべです。しんきくさくとも、がまんしてください」  こうして一同が息をひそめて待つことおよそ一刻《いっとき》。四つ半(十一時)ごろになって、どこかでそおっと雨戸をひらく音。  やみのなかで太郎右衛門がぎょっとしたように、 「あ、あれはたしかにお蝶の居間……」 「しっ、だまって、だいじょうぶです。辰と豆六が張りこんでおりますから」  それからまた、骨をさすような静けさだったが、やがて、だしぬけにたまぎるような女の悲鳴、つづいて、どすんばたんと、取っ組みあうような音がきこえたかとおもうと、 「わっ、し、しまった!」  と、金切り声を張りあげたのはたしかに辰だ。なにかしくじりをやったらしい。  佐七はぎょっとして雨戸をあけ、素足のまま庭へとび出したが、そのとたん、おもわずそこに立ちすくんでしまったのである。  庭の石灯篭《いしどうろう》を背におうて、夜叉《やしゃ》の形相もものすごく、立ちはだかっているのは、三十五、六の大年増である。その足元にはわかい娘がひきすえられていて、あわれ、もう正体もない。大年増は片手に娘の髪をひっつかみ、そののど首にぴたりと匕首《あいくち》をあてている。 「あっ、お、お吉!」  太郎右衛門が悲鳴をあげた。 「な、なにをするんだ、それはおまえの産んだお蝶じゃないか。おまえはお福を傷ものにしたばかりか、お蝶まで殺す気かえ」 「太郎右衛門さん、いいかげんにしておくれ、おまえよくも、お蝶とお福をいれかえて、あたしをだましておくれだったね。おかげで、あたしゃじぶんの娘を、あたら傷ものにしてしまった。そのかわり、おかみさんの産んだこのお福、命をもらうからよく見ておおきよ」  お吉は夜叉の形相ものすごく、さっと匕首をふりあげたが、そのとき、 「おっと、待ちねえ。お吉、その成敗ならおれにまかせておくがいい」  灯篭のうしろから、ヌーッと出てきたのは、ほおにすごみな傷のある、あの不知火権三である。 「おや、権三さん、おまえ、どうしてここへやってきたのさ」 「かわいいおまえのかたき討ちだから、おれもひと太刀《たち》、助太刀《すけだち》してやろうと思って、おまえのあとからついてきたのさ。お吉、その娘をこっちへよこしねえ」  正体もない娘のからだをお吉の手から、じぶんのほうへひきとると、 「お吉、ここらが年貢《ねんぐ》のおさめどきだ。神妙に覚悟をしたほうがいいぜ」  権三のことばもおわらぬうちに、お吉はわっと悲鳴をあげると、まるで骨を抜かれたようにくたくたとその場にくずれていきながら、 「ご、権三さん、お、おまえ、どうしてこのわたしを、こ、こ、殺す……」 「かわいそうだがしかたがねえ。そのかわり、おまえひとりはやりゃアしねえ。おれもあとから追っていくから、冥途《めいど》とやらで待っていろ」  もうひとえぐりきりりとえぐると、お吉はぐったりその場に倒れた。権三はお吉の脾腹《ひばら》から血にそまった刀を引き抜くと、 「もし、小松屋のだんな……」 「は、はい、わたしになにかご用かえ」  ことの意外ななりゆきに、一同ぼうぜんとして立ちすくんでいたが、そのなかから、小松屋の重兵衛がまえへすすみ出ると、 「だんな、これがせめてものご恩返し、せっかくおまえさんの計らいで、笠《かさ》の台をつないでおもらい申しましたが、しょせんは娑婆《しゃば》に縁のねえあっしらしい。お蝶さんはそこへお連れいたしましたから、どうぞお受けとりくださいまし」  権三は刀を取りなおすと、やにわに、われとわが左の腹に突っ立てた。 「あっ、こ、これは」 「こ、これがあのときお世話になった備前長船、いまあらためて、だんなにおかえしいたします。た、宝屋のだんな、おかみさん……」 「は、はい、わたしども夫婦に、な、なにかご用でございますか」 「これだけはいっておきます。お蝶さんがはだをゆるした男というのは、そこにいる宗七つぁんただひとり、あとはきれいなからだでした。こ、こればっかりはあっしのいうこと、し、信用しておくんなさいまし」 「権三どのとやら、なんにもいわぬ。宝屋の太郎右衛門、このとおりでございます」 「権三さん……」  宝屋の夫婦が涙ながらに、両手をあわせてふしおがんだとき、権三はきりりと腹かっさばいて、われとわがのど笛をかっきっていた。因縁の備前長船で。  古いことばだが、性は善とはこのことだろう。  それにしても、殊勝なのはお蝶であった。お蝶は去年はからずも、じぶんのほんとの素性をしった。お常の腹をいためた娘でないことを知ったのである。そうなると、じつの娘のお福よりかわいがって育ててくれた母への恩、また妹にたいする義理からいっても、宝屋のあとをつぐわけにはいかぬと思った。  そこで、大患いをしたのを機会に、にせあほうをよそおうていたのである。  ところが、そこへとつぜん出現したのが、じつの母のお吉であった。  お吉はある晩、お蝶の部屋へしのびこみ、にせあほうのお蝶をだいてかきくどいた。根性のねじけたお吉は、お蝶のにせあほうを、ほんものとおもいこんだばかりか、これもみな、お常のなせるわざだと思いこんだ。  きっとこの仕返しにはお福をかどわかして、ひとまえにも出られぬような傷ものにしてやるといきまいた。生涯、嫁にいけぬからだにしてやるとののしった。もし、またそれに失敗すれば、宝屋に火をつけてやると放言した。  お蝶はそこで身を犠牲にして、妹の身代わりになる決心をした。お福になりすまして、わざとかどわかされた。そしてお福には当分、じぶんの身代わりをつとめるように、いいふくめておいたのである。  お福はまさか姉にそのような悲しい、おそろしい運命が待ちかまえていようとは知らなかった。小さいときから姉しだいでそだってきたお福は、ひたすら姉のいいつけを守っていた。  お吉はげんざいのわが娘ともしらず、これを舟まんじゅうにしたてて、客をとらせることにしたが、そのとき、あらかじめ、こう申しわたしたそうである。  ひと晩にひとりずつ客をとり、十日神妙につとめたら、家へかえしてやる。そして、じぶんはうらみを忘れて、権三とともに、上方へ去るつもりだと……。  つまり、十人の男にもてあそばせて、お福を傷ものにしようというのであった。そして、このいいつけにしたがわなければ、宝屋のうちに火をつけてやるといきまくこともわすれなかった。  いずれは尼になるつもりのお蝶は、悲しく思いあきらめて、ゆうべはじめて客をとったが、それが宗七だったというわけである。  どこのだれともしらぬ男に身をまかせたとき、お蝶はけなげにも、耐えしのべるだけは、耐えしのびとおすつもりでいた。しかし、しょせんそれはむりな相談だった。  お蝶はしっかり手綱をひきしめていたつもりだが、最初の苦痛が去るとまもなく、手綱はしだいにゆるみはじめた。お蝶はひっしとなってその手綱をひきしめようとかかったが、男のたくましいほこさきにかかっては、しょせんはむなしい努力でしかなかった。  ゆるんだ手綱は、ついにお蝶の手からはなれた。  あとは、天馬空をゆくがごとき思いに身をひたして、お蝶はみだれにみだれた。男のあやつる棹《さお》にみちびかれて、お蝶のからだは、激流となってほとばしり、潮となって満ちあふれた。  憎いはずの男のからだを、力いっぱいだきしめて、お蝶はわれを忘れてあえぎ、ひた泣きに泣いた。  別れるときの月の光で、その憎い男が宗七であったとわかったときのお蝶のおどろき……それは思いなかばに過ぎるであろう。  権三もまたおどろいた。  かえりの舟のなかで、権三はきびしくお蝶を責めて、男のことをたずねた。ことに宗七の忘れていった備前長船をみつけたときの権三のおどろき。かれはいっそう強くお蝶を責めたてたが、お蝶はがんとして口をわらなかった。これ以上、累を他へおよぼすことをおそれたのである。  しかし、そのことで、すっかり動揺していたお蝶はうちへかえって盥《たらい》で行水(ぎょうずい)しているとき、ついうっかり左の腕にあるあざを、母のお吉に見られてしまったのである。  そのときのお吉のおどろきも、また、どんなだったろう。われとわが手で身をけがさせたその娘が、なんと、わが腹をいためたかわいい娘であったとは!  外道のうらみはさかうらみとはこのことだ。お吉はこんや、悪鬼夜叉《あっきやしゃ》とたけりくるって、ほんもののお福を殺しにきたのであった。  お蝶の心は複雑だった。  彼女は宗七を憎もうとした。恨もうとした。また、堅い、堅いといわれながら、かげでこっそり舟まんじゅうなどというけがらわしい女にたわむれる男を、いやしいものとさげすもうとした。  しかし、いっぽう、あの狭い、むさくるしい舟のなかで、力いっぱい抱き合った宗七のたくましいからだやはだの感触を、お蝶はいつまでも忘れかねるのだった。  と同時に、どこのだれともわからぬ男に身をまかせながら、あんなに乱れに乱れたじぶんのことを、宗七どんはどう思っているだろうと考えると、お蝶は身も世もないほどつらかった。  ところが、その翌日権三から、宗七がじぶんをけがしたおわびのしるしに、首をくくって死のうとしたと聞いたとき、お蝶の恨みも、憎しみも、はてはさげすみもけしとんだ。あとはもう、宗七恋しさに、身も心ももえにもえた。  お蝶はそれからまもなく、伯父《おじ》重兵衛のはからいで、めでたく宗七と夫婦になって、宝屋ののれんをわけてもらったが、まず、からだとからだで結ばれたふたりのなかは、蜜《みつ》よりもあまく、のちまでながく栄えたという。     春色|眉《まゆ》かくし  眉《まゆ》かくしの女   ——くやしい、わたしはどうしよう  文化から文政にかけて、江戸一番とうたわれた、捕物《とりもの》名人の人形佐七は、男はよし、度胸はよし、腕はよし、気まえはよしと、三拍子も四拍子もそろった親分だが、玉に傷ともいうべきは、この男、女にかけてだらしがない。  おりおり、妙な女にひっかかっては、問題をおこすから、そうでなくともくろうとあがりで、人一倍、悋気《りんき》ぶかい女房のお粂は、おちおち気のやすまるおりとてもない。 「辰つぁん、豆さん、そのあいてというのは、いったいどんな女なんだい」 「それがねえ。あねさんのまえじゃいいにくいが、小股《こまた》の切れ上がった、そりゃあすがたのいい女なんで」 「としは、そやな、二十五、六だっしゃろ、目もとの涼しい、鼻の高い、——水のたれるようなきりょうちゅうのは、あんな女をいうんだっしゃろな」  と、辰と豆六がため息をつくから、さあ、お粂はいよいよ、気が気でない。  いったい、きんちゃくの辰と、うらなりの豆六というこのふたりは根はごく正直な人物なのだが、お粂の悋気ぶかいことを知っているから、おりおり、とんでもないことをいいだしては、お粂をやかせて喜んでいるという、ちょっとひとの悪いところがある。  お粂もそれを知っているから、うっかりその手に乗らぬように、警戒しているのだが、こんどというこんどは、それではないらしい。  だいいち、辰と豆六のふたりからして、さきに立って気をもんでいるのだから、女房たるもの、吐胸《とむね》をつかれる思いがするのもむりではない。 「辰つぁん、豆さん、おまえさんたちがついていながら、どうして、そんなことになったんだねえ」  と、お粂は半分泣かんばかりである。 「それがねえ、あねさん、あっしたちがついていりゃ、まさか、そこまで深入りはさせなかったんだが、あいにくそのときは親分ひとりで」 「わてらがいなかったもんやで、親分、ついころりと、女の手管にのってしまいよったんやな。それにしても、なれそめちゅうのんが悪い。こんなことが世間にしれると、親分十手|捕縄《とりなわ》召し上げや。それでわてらこない心配してまんねん」  と、そこで辰と豆六が、こもごも語るところを聞くと、こうである。  それは、二十日《はつか》ほどまえのことである。佐七はひとりで、日本橋の歌村という小間物問屋へ出向いていった。  御用の筋というのはこうである。  その時分、江戸にはひんぴんとして、抜け荷買いの品があらわれた。  抜け荷買いの品、つまり密売品である。  オランダわたりの唐桟《とうざん》、モール、珊瑚《さんご》というような高価な品々が長崎会所の手をへないで、直接江戸へ持ち込まれるのだ。  しかも、その数量からいって、よほどおおがかりな抜け荷買いの一味が関係していると思われるのに、そのやり口が巧妙をきわめていて、なかなかしっぽがつかめなかった。  さてこそ奉行所ではやっきとなって、ご府内の御用聞きを総動員で探索にあたらせているのだが、佐七がひとりで歌村へ出向いていったのも、つまりは、その探索のためであった。  日本橋の歌村は名だかい老舗《しにせ》で、そういういかがわしい仕事に関係があろうとはおもえなかったが、商売がら、珊瑚だの、鼈甲《べっこう》だの、抜け荷買いに関係のふかい品をあつかうので、なにか参考になるようなこともあろうかと、出向いたわけである。  ところが、その店先で、亭主の孫右衛門《まごえもん》や番頭の治兵衛《じへい》をあいてに話しこんでいると、そこへひとりの女がはいってきた。  はでな縞《しま》の着物に、黒縮緬《くろちりめん》の羽織をぞろりと着ながし、あずき色のまゆかくしずきんに、爪紅《つまべに》さした素足には、黒の塗り下駄をつっかけていようという、どうみてもしろうととはおもえぬ風体だが、その様子のいいことといったら、清長の一枚絵を見るようであった。  根が女に目のない人形佐七、これをみるともう動けない。  用事がすんで、あげかけていた腰をふたたびおろすと、亭主や番頭をあいてに冗談話をしながら、見るともなしに女の様子をみていたが、そのうちに、たいへんなところを見てしまったのである。  若い手代をあいてに、あれやこれやと、櫛笄《くしこうがい》の品定めに、よねんのなかったくだんのまゆかくしの女が、手代のゆだんをみすまして、すばやく二、三点たもとのなかへしのばせた。  あるじの孫右衛門や、番頭の治兵衛もこれに気がついたから、おもわずあっと顔色かえるのを、佐七はすばやく目顔でおさえて、 「ここでことを荒立ててはまずい。万事はあっしにまかせておきなさい」  なにしろ、あいてがいま評判の御用聞きである。  それに、歌村としても店先で万引き騒ぎは演じたくなかった。  そこで、万事を佐七にまかせて様子を見ていると、女はまもなく、江戸の水かなにかを、ひとびん買ってかえっていった。  佐七がそのあとをつけていったことはいうまでもない。 「そこまではよかったんですが、さあ、それからあとがいけねえ。親分、なってねえんです」 「いけないとはどうしたんだえ」  お粂は目の色がかわっている。  気が気でない息づかいだ。 「いやね。そうして、女のあとをつけていった親分、それから一刻《いっとき》ほどたって、ホロ酔いのいっぱいきげんで、歌村へ引きかえしてきやはったんやが、そこでいうことがええ。あの女には子細はない。あら、じぶんの目ちがいやったと……」 「あら、まあ!」 「そんなはずはねえんです。げんに、その女が万引きするところを、亭主や番頭もちゃんと見ている。あとで調べると珊瑚《さんご》の根付けと鼈甲《べっこう》の櫛《くし》がなくなっている。そのことを、孫右衛門や治兵衛が申したてると、親分はいたけだかになって、おれが子細はねえというのに、おまえたちは難癖をつけるのか。だれだと思う、お玉が池の佐七だと、十手をかさにむちゃくちゃなんです」 「いままで、そんな人やなかったんやが、魔がさしたというんだっしゃろ。女をつけていったんはええが、向こうへあがりこんでいっぱい飲まされ、ねえ、親分、とかなんとか、味な目つきをされたんで、親分ころりとまいってしまいよったんや」 「くやしい。そして、その女というのは何者だえ」 「なんでも、鐘突《かねつき》新道へちかごろ引っ越してきたお蓮《れん》とかいう女なんです。いずれだんながあるんでしょうが、ふだんはばあやとふたり住まい、そんなところへあがりこんだんですから、下地は好きなり、どんなことがあったかしれやアしません」  たきつけるつもりではないが、辰と豆六からそんな話をきかされて、 「くやしい、くやしい。わたしゃどうしよう。どうしよう」  と、お粂はその場に泣き伏した。  艶説《えんせつ》鐘突新道   ——だって親分はみずくさいんですもの 「もっともや、もっともや。あねさんのくやしがるのもむりはおまへん。わてかて、こんどの親分のふしだらには、腹のなかが煮えくり返るようや。しかし、あねさん、話はまだそれだけやおまへんで」 「まあ、まだ、なにかあるの」  お粂は泣きぬれた目をあげて、不安そうにふたりの顔をみる。  辰と豆六はため息をついて、 「魔がさしたというのは、ほんとにこのことでしょう。万引きの一件があったその翌日のことなんです。歌村の店先へすわりこんだやつがある。五分さかやきの、すごいようないい男の浪人者なんですが、みずから名のるところによると宇津木|源之丞《げんのじょう》といって、お蓮の兄にあたるんだそうです。さて、その源之丞のいうのにゃ、きのうじぶんの妹に万引きのぬれぎぬをきせて、岡《おか》っ引《ぴ》きにあとをつけさせたそうだが、いったいどういう了見なんだ。お蓮は世間体を恥じて、あれから気ちがいみてえに嘆き悲しんでいる。うっかりすると自害するかもしれねえ。なんにもしらねえものにぬれぎぬきせて、さあ、どうしてくれるとこわ談判……」 「つまり、ゆすりなんだね」 「そうだす、そうだす。歌村でも店先で大きな声をたてられて大弱りや、非は向こうにあっても、ことを荒だてたら老舗《しにせ》に傷がつく。そこで、奥へとおして一杯のませ、いくらかつかませてかえしたらしいんやが、ちょうどそのあとへ、またうちの親分がいきあわせた」 「まあ、よかった。それで、親分がその浪人者をとっちめたんだろうね」 「ところが大ちがい、歌村の主人からその話をきくと、親分、鼻でせせら笑って、罪もない女に、汚名をきせたからにゃ、それくらいのことはあたりまえだ。よくいたわってやんねえと……」 「まあ!」 「なにしろ、親分、その女にすっかり鼻毛を読まれてるんで、しよがおまへん。歌村でもあまりへんやと思たもんやさかい、丁稚《でっち》の長松ちゅうのに、親分のあとをつけさせたら、親分、それからまた鐘突新道のお蓮のうちへあがりこんで、酒を飲んだりふざけたり……」  聞くことごとに、お粂もあきれはてたかして、もう泣くにも泣けない気持ちだったが、ちょうどそのころ、鐘突新道のお蓮の家では……。 「ああ、酔った、酔った。おめえのすすめじょうずにはかなわねえ。すっかりいい気持ちに酔っちまったぜ」  と、佐七め、鼻のしたをながくして、やにさがっている。 「ほっほっほ、親分さんのお口のうまいこと。どうせわたしのようなもののお酌《しゃく》じゃ、気に入らないのはわかっていますわ」  長火ばちのむこうにすわったお蓮は、朱羅宇《しゅらう》のキセルをひねりながら、艶《えん》なながしめなのである。  どういうわけかこの女、家にいるときも、あずき色のずきんだけはとらない。  それがまためっぽういろっぽくて、佐七め、ぶるると胴震いしやあがった。 「おやおや、またはぐらかされか。おい、お蓮さん、おまえも罪がふかいぜ。あれから二十日もたつのに、少しは打ちとけてくれてもよかろうぜ」 「そりゃもう、わたしだってそう思うけれど、おまえさんの気心がしれませんもの」 「なに、気心がしれねえ。それはこっちのいうことだ」 「あら、なぜ、なぜ……どうしてわたしの気心がしれませんの」 「まずだいいちに、あの源之丞さんよ。おまえは兄貴だというけれど、どうだかしれたもんじゃねえ。おいらアなんだか心配でたまらねえよ」 「あら、またそのことをおっしゃる。あれはほんとうににいさんなんです。顔を見てもわかるじゃありませんか。みんな生き写しだといいますわ」 「それはそうだが、いとこ似ってこともあるからな」 「あら、またあんなことをおっしゃって……どうせわたしは万引きなどする女ですから、信用のないのもしかたがないとあきらめますが、現在の兄とのなかを疑われるなんて、わたしゃあんまりあさましくって……」  お蓮はほろり、そで口で目をふいている。こうして女に泣かれると、佐七はたちまちぐんにゃりして、 「なにさ、なにさ、そういうわけじゃねえけど、なにしろ源之丞さんという人が、あまりいい男ぶりだから、おれもちょっと心配なのさ」 「ほんに、あの人の男ぶりにゃ、わたしもしじゅう苦労します。親分さんには疑われるし、わたしは立つ瀬がありません」 「なにさ、なにさ、ほんとの兄妹《きょうだい》とあらば、なにもいうことはねえ。しかし、お蓮さん、それじゃおまえ、ほんとにほかに男はねえんだな」 「親分のうたぐり深い。きょうこのごろのわたしは、ほんとに寂しい身のうえなんです」 「そんなら、お蓮さん、もうそろそろ、そのずきんぐらいとってくれてもよさそうなもの」 「あれ、このまゆかくし……」  と、お蓮は額に手をやって、 「いつも申し上げるように、このずきんは、せんの夫に死に別れたとき、二度と亭主は持つまい、生涯男のまえではこのまゆかくしをとるまいと、かたく誓いをたてたんです。しかし、このごろでは、どうやら心の誓いもゆるんで……」 「え?」 「あいてによっては、このずきん、とってもいいと思うんですけれど、思うおかたは気心が知れず……」 「はてな、おれなら、心の底まで見せているつもりだが、やっぱり思う男はほかにあるのか」 「あれまた、あんなことをおっしゃる。だって、おまえさんはみずくさいじゃありませんか」 「おれがみずくさい? どうしてそんなことがいえるんだ」 「だって、みずくそうございますわ」 「だから、なにがみずくさい」 「いいえ、みずくそうございます」  と、しだいに痴話がこうじてくるとき、雨戸のそとに男がひとり、さっきからじっと、聞き耳を立てているのである。  痴話がこうじて   ——佐七はポロリと杯落として  お蓮がみずくさいというのはこうである。  さっき、佐七がふところから、一通の手紙を取り落とした。  お蓮がなにげなく拾い上げると、佐七はあわてて横取りして、ふところへねじこんでしまった。  あの仕打ちが憎らしい、みずくさいと、お蓮はそれを怨《えん》じるのである。 「なんだ。なんのことかと思ったら、そのことか。ありゃおまえ、なんでもねえ手紙」 「なんでもない手紙なら、見せてくだすってもいいじゃありませんか。いいえ、そんなことおっしゃって、きっといいひとからきた手紙にちがいありませんわ」 「そんなことがあるものか、おまえがそんなに疑うなら、上書きだけ見せてやろう。ほら、これはおれが書いた手紙だよ」 「おや、ほんとうに……でも、でも、ああ、わかった。きっといいひとにやるんでしょう」 「あれ、まだ、そんなことをいっているのか」 「だって、それなら、見せてくださってもいいじゃありませんか」 「弱ったな、どうも、お蓮さん、いくらなんでも、こればっかりは見せられねえ」 「ええ、そうでしょう。そうでしょうとも。どうせわたしのようなものには……ああ、くやしい」  と、お蓮がぷっつりおくれ毛をかみきったから、さあ、佐七のやつあわてて、 「ま、まあ、まあ、なにもそうおこることはねえやな。見せられねえたって、これはけっして怪しいものじゃねえ。じつはな、これは御用のことで、お上へ差し出す手紙だわな」 「ほっほっほ、あんなうまいことをおっしゃって、御用といえば、わたしが恐れるかとおもって……ああ、くやしい!」  お蓮がまたもや、おくれ毛をかみきるようすに、佐七はいよいよあわをくって、 「ま、まあ、待ちねえ、弱ったな、どうも。しかたがねえ、おまえがそんなに疑うなら、見せてもやろうが、お蓮、このことはだれにもないしょだぜ」 「まあ、見せてくださる。ああ、うれしい。ええ、ええ、おまえさんのためにならないことなら、なんで、わたしがしゃべりますものか」 「よし、それじゃ見せてやろう。お蓮、まあ、読んで疑い晴らしてくんねえ」  いったい、これはどうしたというんだろう。  いかに佐七が女に甘いとはいえ、これではあまりだらしがなさすぎる。  お蓮はしかしうれしそうに、佐七の出した手紙に目を通したが、たちまち顔色かえて、 「あっ、これは抜け荷買いの……」 「そうよ」 「そして、あの歌村のだんながその抜け荷買い……」 「しッ」  と制して、佐七はあわてて座を立った。  そのけはいにおどろいたのは、雨戸のそとで立ち聞きしていた男である。  あわてて縁の下へはいこんだが、月の光でその顔をみると、なんとこれが、歌村の番頭治兵衛なのである。  だが、そんなことと知るやしらずや、こちらは、まゆかくしのお蓮と佐七である。 「すみません、すみません。わたしの邪推から、こんなだいじなものを見せていただいて……」 「お蓮、それじゃ疑いは晴れたかえ。疑いが晴れたら、ちょっとこっちへ」 「あれ、親分、それじゃあんまり話が急で……まあ、いっぱいお飲みなさいまし」 「また、おれを盛りつぶそうというのかえ」 「いいえ、そうじゃございません。今夜という今夜は、このまゆかくしをとりますけれども、しらふじゃなんだかきまりが悪くて……親分、わたしもいただきますから、おまえさんもちとお重ねなさいまし」  と、しばらく、杯のやりとりをしていたが、そのうちにどうしたものか、佐七はポロリと杯を取り落とすと、色男のだらしがない、口のはたからよだれをたらして、いぎたなく眠ってしまった。 「あら、親分、いやですわ。いまから寝てしまっちゃお楽しみが……親分、親分、ふふん、どうやら薬がきいたらしいよ」  まゆかくしのお連はあざけるような冷たい目で、じっと佐七の寝顔を見守っていたが、やがてふところへ手を入れると、さっきの手紙を探りだし、それからふすま越しに隣のへやへ声をかけた。 「にいさん、にいさん、うまくいったよ。この手紙を持って、歌村へ掛け合いにいっておいでな。こんどは五両や十両の目腐れ金で追っ払われちゃだめですよ。二百か三百、たんまりまとまったものを、とってこなくちゃ……」  それからまもなく、鐘突新道のお蓮の家から出てきたのは、浪人者の宇津木源之丞、きょうだいとはいえ、なるほどお蓮によく似ている。 「お蓮、それじゃいってくるが、佐七の野郎を逃がしちゃならねえぜ。なに、ぐるぐる巻きにして、さるぐつわをはめてあるからだいじょうぶだ? あっはっは、薬のききめとはいえ、たわいがねえな」  鼻歌まじりに、路地を出ていく源之丞のうしろから、番頭治兵衛も見えがくれに……佐七はその晩から家へかえらないのである。  霊巌島の夜あらし   ——さて、その人物とは 「ごめんくださいまし。お蓮さんとおっしゃるかたは、こちらでございましょうか」  それから三日目の夕がたのこと。  鐘突新道のお蓮の家へ、血相かえて、やってきたのはお粂である。  あいにく、ばあやがいなかったかして、お蓮がみずから出てきたが、お粂を見るとまゆをひそめて、 「あの、どなたさまでございましょうか」  そのお蓮のあでやかな姿を見るなり、お粂はもう、嫉妬のために目がくらんだ。 「わたしはお玉が池の佐七の女房、お粂というものですよ。おまえさんがお蓮さんですね。うちの人をどこへやったんです。さあ、うちの人を返してください」  ものすごいお粂のけんまくに、 「あっ、それじゃ、おまえさんが親分の……」  と、お蓮はすそをみだして奥へ逃げこんだが、そのとき、たもとから落としたのが一通の文。 「お待ち、おまえさん。逃げるんだね」  お粂も相当のものである。あと追っかけて上へあがったひょうしに、見覚えのある夫の筆跡だから、はっとして、すばやく拾ってふところへかくすと、 「お蓮さん、逃げるとはひきょうじゃないか、おまえもひとの亭主に、ちょっかいを出すほどの女でしょう。ここへ出てきて……」  がらりとあいたふすまを開いたひょうしに、お粂はどんと胸をつかれて立ちすくんだ。  そこに立っているのは、浪人者の源之丞、刀のさげ緒を片手につかみ、ものすごい微笑をうかべている。 「おかみさん、いやさ、お粂さん。おまえ、なにかうちの妹に、いいたいことがあるそうだが、文句があるならおれがきこう。妹のお蓮は、ああみえても、いたって気の小さい女でな」 「は、はい……」  お粂はおもわず、ひざがしらががくがくふるえた。  なめるようにジロジロと、からだじゅうをみまわす源之丞のひとみの色の気味わるさ。  なにかしら、いやらしい、みだりがましい、まるであいてを裸にして、なめまわすような目つきである。 「あっはっは、どうした、お粂さん、いいたいことがあるならいわねえか。おやおや、かわいそうに、舌があごへひっついたそうな。おまえのほうにいうことがなきゃ、おれのほうからいってやろう。おまえの亭主の佐七なら、妹のお蓮にしつこくつきまとっていたが、あんまりうるせえから、このあいだ、きょうだいして、さんざっぱら恥をかかしてやったら、それっきり足踏みしなくなったぜ。それだけ聞きゃじゅうぶんだろう。さあ、かえった、かえった。それとも、もう少しここにいて、このおれとひとつおもしろく遊んでいくか。おい、お粂」  源之丞がやにわに猿臂《えんび》をのばしたから、 「あれえッ」  と、お粂はうしろざまにひとっ飛び、そのまま格子《こうし》の外へとび出したが、とたんに、左右から寄ってきたのは、辰と豆六である。 「あねさん、どうしました」 「すっかり、毒気を抜かれた顔つきやおまへんか」 「あっ、辰つぁん、豆さん、わたしゃくやしい」 「あねさん、ど、どうしたんです」 「どうもこうもありゃしない。ああ、気味がわるかった。あんないやらしい男ははじめてだよ。だけど、辰つぁん、豆さん、わたしゃたしかな証拠を手に入れたから、きょうはこのままかえろうよ。あの色気ちがいの浪人者め、いまにつらの皮をひんむいてやるから、見ているがいい」  捨てぜりふをのこして、お粂はそのまま、お玉が池へかえってきたが、さて、そこでさっき拾った亭主の手紙を開いてみて、お粂はあっとおどろいた。 「あねさん、親分の手紙といやあ、どうせいやらしいことが書いてあるんでしょう」 「そやそや、恋しきお蓮さままいる、こがるる佐七よりてなもんやろ。あねさん、あほらしい、そんなもん破ってしまいなはれ」 「辰つぁん、豆さん、それどころじゃアないよ。これはこれ、親分から奉行所へ差し出す手紙」 「えっ!」 「抜け荷買いの一味がわかったんだよ。今夜その一味の船が、霊巌島《れいがんじま》へ着くというしらせの手紙、辰つぁん、豆さん、こりゃこうしてはいられない。おまえさんたちこれを持って、すぐこれから、お奉行所へいっておくれ」  さあ、たいへんなことになったものである。  辰と豆六は、それからすぐ奉行所へ駆けこんだが、奉行所でも、委細の話をきいて驚いた。  なにしろ、ほかならぬ人形佐七の直筆の手紙だから、それっとばかりに手配して、霊巌島かいわいは、ありのはいでるすきまもないほどの警戒ぶり。  その晩、霊巌島付近の住民は、ときならぬ捕物騒ぎに、深夜の夢をやぶられて、明けがたごろまで息をこらして、ふとんのなかにもぐりこんでいたものである。  まったく、これは近来にない大捕物だったが、夜が明けるとともに、ひとびとは、抜け荷買いの一味が、昨夜、一網打尽にあげられたことを知った。  それと同時に、その抜け荷買いの首領というのが、日本橋の小間物屋、歌村の主人孫右衛門と聞き伝えて、あっとばかりにおどろいた。  さらにまた、この捕物の采配《さいはい》をふるったのが、お玉が池の人形佐七と聞いたときには、いまさらのように、佐七の腕に感嘆したものだが、ここにひとり、妙な人物が佐七とともに、働いたということがわかったときには、江戸じゅう、わっとばかりにわきたったものである。  さて、その妙な人物というのは……。  春景ついたての陰   ——やきもちやいたが恥ずかしい 「あれ、まあ、おまえさん、よくかえっておくれだったね。わたしゃもう、二度とおまえには会えないかと……」  ここはお玉が池の佐七の住まい。  ゆうべの捕物のいきさつが、はやくも読み売りになって、町から町へとながれていくのを聞きながら、お粂はひとりで亭主の安否をおもい煩うていたが、思いがけなくその佐七が元気でかえってきたのだから、お粂はもう飛び立つおもいだ。 「あっはっはっは、お粂、どうした。いやに青い顔をしているじゃないか」 「だって、わたしゃもう心配で、心配で……ねえ、おまえさん、これにこりて今後はもう、けっしてうわきをするんじゃないよ」 「あれ、お粂、へんなこというぜ。おれがいつうわきをしたい」 「おまえさん、かくしたっていけないよ。お蓮《れん》という莫連《ばくれん》者にうつつを抜かして、すんでのことで、だいじな御用に、間を欠くところだったじゃないか。わたしがああして、おまえさんの手紙を見つけて、お奉行所へ届けたからよかったものの……ねえ、おまえさん、お蓮という女も、つかまったんでしょうねえ」 「ああ、あのお蓮さんかえ、なに、あの人がつかまるものか。おれといっしょに、いまお奉行所からかえってきたところだ。お蓮さん、お蓮さん、遠慮はいらない。こっちへおはいり」  あっとお粂がおどろいたのも無理はない。 「ごめんくださいまし。きのうはどうも。ほっほっほ」  と、あでやかに笑いながらはいってきたのは、なんと、あのまゆかくしのお蓮ではないか。  お蓮はいかにも親しげに、ぴったり佐七に寄り添うと、 「親分さん、どうぞねえさんに、あやまってくださいまし。わたしゃもう、ねえさんにしかられるのがこわくって……」  と、あふれるような媚《こび》をうかべて、佐七の指をまさぐっているから、お粂は思わずかっとした。 「おまえさん、それはなんのまねですっ。わたしゃくやしいっ」 「おや、お粂、どうしたのだ。なにをそんなにおこっているのだ。ああ、そうか、おまえ、まだ、あの読み売りを聞いていないんだな」 「読み売りなんかどうでもようございます。それより、おまえさん、その女をどうするつもりですっ」  なにしろ、お粂の勢い、当たるべからざるものがあるから、佐七もすっかりかぶとをぬいだ。 「お蓮さん、こいつはいけねえ。お粂はまだ、なにも知らねえらしい。すまねえが、ひとつ、そのまゆかくしのずきんを、とってやってくれないか」 「親分さん、それよりあのついたてを拝借して!」 「なに、ついたてを借りてえ。あっはっは、そうか、そうか、それじゃ頼もうか」  佐七が笑ってうなずくと、まゆかくしのお蓮は、あでやかなしなをつくりながら、ついと、ついたてのかげへかくれて、 「あの、親分、ちょいと、ちょいと」  と、ついたての向こうから呼んだから、さあ、お粂がおこったのおこらないの。 「なんです。昼日中から、ついたてのかげへ、ひとの亭主をひっぱり込もうとは……なんといういやらしい女だろう。あきれてものがいえないよ。さあ、こっちへ出ておいで、ああ、いやらしい」  と、ものすごいけんまくで、ついたてをぐいとむこうへ押しやったお粂は、おもわずあっと立ちすくんだ。  なんと、ついたてのむこうに、ゆうぜんとあぐらをかいているのは、浪人者の宇津木源之丞、お蓮の姿はどこにも見えない。  お粂はあきれて、二の句もつげなかったが、おりからそこへ、表からあたふたとかけ込んできたのは、きんちゃくの辰とうらなりの豆六だ。 「あねさん、いけねえ、いけねえ、まんまと親分に一杯かつがれた」  と、飛び込んでくるなり、源之丞のすがたを見つけて、 「あっ、おまえは葉村屋の親方……」 「あれまあ、辰つぁん、豆さん、それじゃおまえこの人を知っているのかえ」 「知っているどころやおまへんがな。どうもどこかで見たひとや思てたが。あねさん、このひとはこの春狂言に大阪から下ってきた、早変わりの名人、葉村屋の親方、嵐雛之丞《あらしひなのじょう》さんやがな」 「あれまあ、それじゃ、さっきのお蓮さんもこの人かえ。それとは知らずにやきもちやいて、おお、恥ずかし」  どっとあがる一同の笑い声、ひさしぶりにお玉が池に春色がみなぎったが、やがて雛之丞は居ずまいをなおして、 「あねさんには、いろいろご心配をおかけしましたが、これもひとえに親分のあついお情け」 「ええ? うちの人の情けとは」 「お聞きくださいまし、かようでございます。この春、堺町《さかいまち》のしばいへくだってまいりましたが、なじみの浅い土地がらとて、さっぱり人気もたちませず、いっそこのまま大阪へかえろうかと思いましたが、それではあまり残念と、おもい煩うているおりから、ふとしたことでお知り合いになったのがこちらの親分。このまま大阪へかえっては、むこうの人気にもかかわろう。心配するな、つぎの狂言までには、きっと人気のたつようにしてやろうとおっしゃって、それからしくんでくださったのが、お蓮源之丞の一人二役……お聞きくださいまし、あの読み売りの呼び声を。お玉が池の親分をたすけて、抜け荷買いの一味をあげたのは、早変わりの名人嵐雛之丞、てがたによってお奉行所から、おほめのことばをいただいたと、江戸じゅうのいたるところでたいした評判。これでつぎの狂言に人気のたつのは必定、これというのも、親分のおかげでございます」  と、雛之丞は男泣きだった。  佐七はおだやかに笑って、 「なに、そう礼をいわれてはいたみいる。こんどのことはおたがいっこだ。抜け荷買いの、一味の首領は歌村とにらんだものの証拠がねえ。そこでおまえに片棒かついでもらったのだが、お粂、よく聞きねえ。歌村じゃ、おれがお蓮という女にたぶらかされていると思い込んでいるものだから、お蓮の兄の源之丞を味方に抱き込もうと、なにもかもぶちまけてしまいやアがった。これというのも、日ごろから、お玉が池の佐七は女にあまいという評判が、役にたったんだ。どうだ、辰、豆、うわきもときにはしておくもんだあな」 「あれ、おまえさん、そればっかりは……」  と、お粂はつるかめつるかめというように、ぴったり佐七に寄りそったという、春色まゆかくしの段、へえ、ごたいくつさま。     幽霊の見せ物  怪談|六間堀《ろっけんぼり》の寮   ——幽霊の見せ物が出るちゅう話や  むかしはずいぶん、いろんな見せ物があったものだが、そのなかでも、毎年夏になると、きっとはばをきかせるのが「幽霊屋敷」あるいは「化け物屋敷」。  血みどろの生き人形だの、三つ目小僧だの、ろくろ首などを、やぶだたみかなんかのかげにならべておいて、お客さんをキャッといわせようという趣向の見せ物が、夏場になると、きっと浅草の奥山だの、上野の山下などで催されたものである。 「親分、親分、深川の六間堀《ろっけんぼり》に、幽霊の見せ物があるのをご存じですかい」  と、辰と豆六が鼻のうえにいっぱい汗をかいて、お玉が池へまいもどってきたのは、町々からたなばたの色竹もとれた、暑い七月の昼さがり。 「深川の六間堀に幽霊の見せ物……?」  と、佐七は目をみはって、 「辰、豆六、そりゃア浅草の奥山のまちがいじゃねえのか」 「親分、そやおまへんねん。浅草の奥山へ出るのんは、目吉のこさえた生き人形の化け物や。ところが、深川の六間堀へ出るのんは、ほんものの幽霊やそうだす」 「なに、ほんものの幽霊が出る……?」 「へえ、そうです、そうです。しかも、番茶も出花の十七、八、水のたれそうなべっぴんの幽霊が出るとやらで、それを見せ物にしてるやつがあるんです」 「うっぷ」  と、佐七はおもわず吹きだして、 「おい、辰、豆六、おまえたち、暑気《しょき》あたりがしたんじゃねえか。めまいがしやアしねえか。耳鳴りはどうだ」  と、からかわれ、辰と豆六はぷっとつらをふくらませた。 「親分、そんなんじゃねえんです。いまそこの海老床《えびどこ》でうわさを聞いてきたんですが……」 「この話には、なにか裏がありそうな気がしてしよがおまへんねん。親分、まあ、ひとつ、兄いの話をきいてやっておくれやす」  と、豆六も意気込んで小鼻をふくらませる。 「ああ、そうか。それじゃ話だけでも聞かせてもらおう。裏というのはどういうんだえ」 「いえ、その裏というのは、おまえさんに考えてもらわなけりゃなりませんが、ほら、去年の春、にせ金づくりの罪で死罪になった本石町の両替屋、銭屋|五郎兵衛《ごろべえ》というものがございましたろう」 「ふむ、ふむ、銭屋五郎兵衛……」  と、佐七はきらりと目を光らせると、ようやくしんけんのいろを濃くして、 「その銭屋五郎兵衛がどうかしたのか」 「へえ、いまお話しした幽霊が出るというのは、六間堀にある銭屋五郎兵衛の寮なんです。そこへわかい娘の幽霊が出るというんで、それを見せ物にしてるやつがあるんですね。それで、その幽霊というのが……」 「おい、辰、ちょっと待て」  と、佐七は手をあげてさえぎると、 「その銭五の寮というのはどうなっているんだ。いまでもだれか住んでいるのか」 「いえ、それが……豆六、おまえから話をしてくれ」 「おっと、合点。親分、そら、こうだす」  と、豆六はひざをのりだすと、 「銭屋はあれきり闕所《けっしょ》になり、寮も立ちぐされになってまんねんが、なんでも五郎兵衛がさかんやったころ、娘のお露ちゅうのんが、ろうがいかなんかわずろうて、その寮で養生してたんやそうだす」 「ところが、五郎兵衛が死罪になる前後に、お露というのがゆくえをくらまし、生死もわからなくなっているんです。だから、その寮へ出る幽霊というのは、たぶんお露だろう。お露は父の死罪をなげいて、どこかの淵川《ふちかわ》へ身を投げたんだろう。そして、その幽霊が寮へ出るんだろうというんです」 「そして、その幽霊を見せ物にしてるやつがあるというんだな」 「そうです、そうです。それをきいたテキ屋の親分、上総屋《かずさや》竹五郎というやつが、ひと月の約束でその寮をかりきり、木戸銭をとって幽霊を見せ物にしてるんです」  幽霊が出るというさえまゆつばものだのに、木戸銭とって幽霊を見せ物にするというのは、神武以来聞いたことがない。 「おまえ、そりゃなにか、まやかしもんじゃねえのか。あいてがテキ屋の親分とあれば、仕掛けものかなんかで……」 「親分、そら、わてもそういいましたぜ。だけど、源さん、あの金棒引きの源さんだんな、あいつ、正真正銘の幽霊やちゅうてききよらへん。そやさかいに親分、念のために、今晩いっぺん、いてみよやおまへんか」 「そうよなあ」  と、佐七は腕こまぬいたが、胸のなかは怪しく乱れているのである。  諸説紛々各人各説   ——えへん、諸君、まあ聞きたまえ 「そりゃあ、お露も迷うて出るでしょうよね。なんでも、お露にゃあ利助といって、いい男の手代がいいなずけになってたそうです。ところが、銭屋へ手がはいったどさくさまぎれに、利助というのがお露の妹、お蝶《ちょう》というのと手に手をとって、ドロンをきめこむ。それからまもなくおやじは死罪で、家は闕所《けっしょ》。これじゃろうがい病みのお露は生きちゃあいられませんや。どこかの淵川《ふちかわ》へ身を投げたんでしょうが、おもいはこの世にのこるわけでさ」  と、したり顔にかたるやじうまの話を、佐七をはじめ辰と豆六は、小暗いところに立って聞いている。  そこは深川の六間掘、幽霊が出るという寮の付近である。  そのへんは大店《おおだな》の寮だの、発句の宗匠の住まいだのと、風雅なかまえの家が多く、日ごろはしずかを通りこしてもの寂しい場所だが、人気というものはこわいもの、暑さをもてあました閑人《ひまじん》が、こわいものみたさで、押すな押すなの人出である。  幽霊の出る時刻にはまだ早いとみえて、荒れはてた寮の門はしまっており、表に列をつくっていると、名物の蚊がうるさく足にまつわってくる。 「いや、お露の死んだのは、いいなずけの男を、妹にとられたせいばっかりじゃないんですよ」 「へへえ、それじゃほかにもわけがあるんで」 「そうなんです。お露はろうがい病みといっても、寝たっきりというんじゃありません。それで、この寮へ出養生をしているうちに、ついちかくに住んでいた俳諧《はいかい》の宗匠、五風庵《ごふうあん》十雨というやつについて、俳諧を習っていたんですね。この十雨というのが四十ちかい、しかもあばたづらの大男。お露もつい気を許していたところが、こいつがとんだ狒々《ひひ》おやじで、お露を押しころがして、手ごめにしたと思いなさい」 「へへえ。そんなことがあったのか」 「そうなんですよ。ところが、弱きものよ、なんじの名は女なりで、いちど自由にされるともういけません。十雨のいうままになって、おもちゃにされている現場を、利助に見つけられたって話です。それで、利助はお露にあいそをつかし、妹娘のお蝶と、ドロンをきめこんだんだという話ですが、身をかくしたとき、お露はなんでも、十雨のタネを身ごもってたって話ですぜ」 「へへえ、それがまこととすると、十雨という野郎もひでえ野郎だ。まだこの近所に住んでいるのか」 「まさか。さすがにしりこそばゆくなったのか、お露が身をかくすとまもなく、家をひきはらって、どっかへいっちまったという話だが……」 「ところが、ここにひとつの異説ありだ。エヘン、諸君、聞きたまえ」  と、ほの暗い行列のなかから、またべつの声がきこえる。 「なんだ、なんだ、異説たアなんだ」 「そもそも、あの銭屋の一件だがね。大きな声じゃいえねえが、ありゃお上の大きな黒星。にせ金づくりは五郎兵衛じゃなく、五郎兵衛は無実の罪におとされた。つまり、ほんもののにせ金づくりのために、まんまとおとしいれられたという説があるぜ」 「ほほう、そりゃまた……」 「だから、お蝶と利助がドロンをきめこんだのも、お露がゆくえをくらましたのも、じぶんで姿をかくしたんじゃなく、にせ金づくりの一味のものにひっさらわれて、人しれずどこかで殺されたんだろうって説があるんだ」 「なるほど、それじゃお露がヒュードロドロと、化けて出たくなるのもむりはねえな」  口に税はかからぬというが諸説紛々、異説まちまち、佐七はしかし興味ぶかげに、やじうまの話に耳をかたむけている。 「しかし、にせ金づくりの一件はともかく、お露と十雨ができてたってことはほんとうらしいぜ。十雨のやつ、仲間の宗匠のあつまりで、鼻たかだかとお露ののろけを、しかも、きわどいところまで吹聴《ふいちょう》してたって話だからな」  と、うすくらがりで、だれがだれとも見わけがつかぬをさいわいに、かってな説をたてているとき、どこからともなく、 「しいッ」  と、あたりを制する声がきこえて、 「十雨がきた。あれが十雨じゃねえか」  というささやきが、潮騒《しおさい》のようにつたわってきた。  佐七をはじめ辰と豆六が、ギョッとしてふりかえると、三人のすぐ鼻先を、坊主頭に手ぬぐいをのせ、ゆかたのそでを肩までたくしあげ、右手ですそをつまんだ四十がらみの大男、あから顔の大入道が、満面に不敵の笑《え》みをうかべて、ヌーッとばかり通りすぎた。  いかさま、かよわい娘を腕ずくで手ごめにでもしそうな、みるからにあぶらぎった男だ。  佐七がちょっとひじで小突くと、辰はすぐにうなずいて、男のうしろにくっついていく。  そのとき、はんぶんかたむいた寮の門がギイッとひらいて、拍子木の音がすると、 「東西! 東ウ西! これより、幽霊の見せ物、はじまり、はじまりイッ」  幽霊殺し白刃投げ   ——お露は子を産んだか乳首の黒み  なるほど、すごい荒れようである。  軒はかたむき、かわらははがれ、雨戸もほとんどなくなっている。  去年の春からこの夏までの一年間に、しぜんの力だけでは、これほどまでに荒れるはずがない。ひとが住まぬとなると、しかも、それが科人《とがにん》の家だとなると、ついやじうまがいたずらをするのだ。  なかには、たんなるいたずらもあるだろうけれど、欲にからんで、盗んでいったやつもあるにちがいない。  この荒れはてた座敷のなかは、いまいっぱいのひとだかりだ。座敷におさまりかねる見物は、縁先から庭まではみだして、ござのうえに陣取っている。  ただし、縁先から一間ほどのところに綱が張ってあって、そこからさきへは出られないようになっている。  この見せ物師、上総屋竹五郎の口上によると、離れ座敷のあまりちかくまでひとがくると、幽霊がおそれをなして出てこないというのだが、これがくせ者だと佐七は思っている。  さて、幽霊のでるというもんだいの離れ座敷だが、これはおもやの縁側から五間ほどさきにあり、こちらの庭より三尺ほど高い土盛りのうえに建っている。  したがって、こちらの庭のいちばんさき、すなわち綱のすぐそばにすわっている佐七の位置からは、離れ座敷はおあむかねばならぬ場所にある。 「豆六、気をつけろ」 「へえ、合点や」 「十雨のやつはどこにいる」 「十雨は座敷やおまへんやろか。兄いがついてまっさかい、だいじょうぶだっしゃろ」  ひそひそとささやきかわす佐七と豆六。あたりはまっくらというほどではないにしても、だれがだれやら、顔のみわけもつかぬほのぐらさ、しかし、姿かたちからして、ちかまわりに、十雨のいないことだけはたしかだった。  十雨がいれば坊主頭でわかるはずである。おそらく、豆六がいうとおり、十雨は座敷にいるのだろう。  雨もよいの妙にむし暑い夏の夜のひととき。ひといきれと草いきれのむんむんするような、化け物屋敷の座敷や縁側、さてはそこからはみだした見物が、かたずをのんで離れ座敷をみつめている。  離れ座敷は雨戸も障子もなく、外からさしこむほのあかりに、うすぼんやりと床の間や押し入れがみえる。  この押し入れには感心に、ボロボロにやぶれたからかみが立ててある。一同がかたずをのんでみまもるうちに、忽然《こつぜん》として、まったくそれは文字どおり忽然として、押し入れのやぶれふすまのまえに、モウロウと、女の影があらわれた。  はっきりと姿かたちはわからないが、どうやらその女は長じゅばんいちまいらしい。破れ畳の上に片ひざ立てて、そのうえに両手をかさねて、だらりとたれたところが、いかさま薄気味わるいかっこうである。  島田のまげががっくりくずれ、鹿《か》の子《こ》のきれがほつれ毛とともに、青白いほおにほろりとかかって……。  女の影はずいぶん長く、そこにうずくまっていた。うつむいた女の口から、おりおりすすり泣く声がもれる。  あたりはしいんとしずまりかえって、針一本落ちてもきこえそうだ。見物たちは手に汗にぎって、おりおり、なまつばをのむ音がきこえる。  よほどしばらくたってから、女はふらりと立ちあがった。そして、よろめくようにふらふらと、ぬれ縁のそばまで出てきたが、そのときだ。雲をやぶった月の光が、まともから幽霊の顔を照らしたかとおもうと、 「あっ、お露さま——」  と、佐七のうしろの座敷のなかから、はらわたもちぎれんばかりの絶叫がきこえた。  と、そのとたん、幽霊はジリジリとあとずさりして、いま消えるかと思いのほか、 「きゃっ!」  とさけんだかと思うと、どさりと、まえのめりにたおれて、 「ううむ!」  と、苦しそうなうめき声。しばらくからだをのたうちまわらせていたが、やがて、がっくり動かなくなった。  と思うと、押し入れのなかからとびだしてきたのは上総屋竹五郎。幽霊のからだを抱きおこし、ひとめ胸もとをみたかとおもうと、 「わっ、こ、これは……」  と、あたふたと押し入れのなかへかけこんで、それきり姿はみえなくなった。  こう書いてくると長いようだが、じっさいは、お露さま……と、悲痛な叫びがきこえてから、上総屋竹五郎が押し入れのなかへ消えるまで、あっというまのできごとだった。  見物もぼうぜんとして、離れのこのできごとをみつめていたが、そのとき佐七のうしろより、 「あっ、われゃ利助だな!」 「おのれは十雨!」  と、たがいにののしる声がきこえたかと思うと、座敷のなかは芋をあらうような大混雑。 「豆六、利助もきているらしい。てめえ、利助に気をつけろ!」 「おっと、合点」  あとは辰と豆六にまかせておいて、佐七は綱をひとっとび離れ座敷へかけこむと、すぐうしろからとびこんだのは、おなじく庭の正面にいた四十かっこうのだんなである。  佐七が女を抱きおこすと、あとからとびこんできた男が、ひょいとその顔をのぞきこみ、 「あっ、こりゃ、やっぱりお露ちゃん」 「そういうおまえさんは?」 「は、はい、わたしは山口屋|喜兵衛《きへえ》ともうしまして、銭屋さんと同業の、両替屋のあるじでございますが、それではお露ちゃんは幽霊ではなかったので……」  お露は幽霊ではなかった。  しかし、こんどこそ、幽霊になりかねまじきありさまである。ふくよかな左の乳ぶさのうえに、ぐさりと匕首《あいくち》が一本、ほとんど直角につっ立っている。  佐七はきッとおもやをみる。  匕首のつっ立っている角度からみて、おもやの座敷から投げられたものにちがいない。しかも、そうとうの大男が立ったまま……それでないと、離れのほうがおもやよりたかくなっているのだから、匕首は下から上へむけてつっ立つはずなのだ。  佐七はふっと、お露の乳首に目をとめた。  その乳首はくろみからして、お露はたしかに子どもをうんだことがあるにちがいない。  とすると、さっきうわさにきいたとおり、お露は十雨に手ごめにされて、自由になっているうちに、身ごもって子どもを産んだのだろうか……。  さるぐつわ土蔵の中   ——十雨坊主があぶなくてしかたがねえ  さて、こちらはきんちゃくの辰だ。  思いがけなく持ちあがった人殺しさわぎに、かかりあいになっては損と、くもの子をちらすように逃げだす見物のなかにまじって、辰も十雨を追うて出たが、なにしろ芋をあらうような大混雑、辰はとうとう十雨を見失ってしまった。 「ちっ、見失ったか、残念な!」  と、じだんだ踏んでもあとの祭り。しかたなしにもとの化け物屋敷へひきかえそうとしたところへ、むこうからやってきたのは豆六だ。 「おっ、豆六、どうした」 「しっ、兄い、十雨は?」 「面目ないが見失った」 「そんならしよがない。わてといっしょにきなはれ」 「きなはれって、どこへいくんだ」 「大きな声、出しなはんな。むこうへいくのが利助やないか。ふたりでつけていこやおまへんか」 「ああ、そうか。よし」  ふたりがあとをつけているとは、もとより利助は気がつかない。  ものおもいに沈んだ様子で、深川から本所へ、その本所も法恩寺わきとくると、もう江戸とはおもえない。人家もしだいにまばらとなり、夜がらすの声さえ気味わるい。  やがて利助の歩調がしだいにゆるくなってきた。  そして、とある忍びがえしのついた板塀《いたべい》の外までくると、暗い夜道のあとさきを見まわしていたが、やがて吸いこまれるように、木戸のなかへ消えていった。  辰と豆六は顔見合わせていたが、 「よし、かまうこたあねえ。忍びこもう」 「よっしゃ」  こんなことはお手のもの。それからしばらくすると、ふたりの姿はもう塀の外にはみえなかった。  板塀のなかはかなりひろく、すぐそばに土蔵があり、むこうのほうに、雨戸をしめたおもやがある。ふたりはうなずきあいながら、おもやめざしていきかけたが、 「ちょ、ちょっと、兄い」  と、豆六が辰のそでをひきとめる。 「な、なんだ、豆六」 「ほら、あの泣き声……」  なるほど、辰が耳をすますと、土蔵のなかからきこえてくるのは、女のすすり泣く声だ。 「よし、豆六、あの窓からのぞいてみよう。なにか足場になるものはねえか」 「兄い、おあつらえむきや。ここにはしごがおまっせ」 「ふむ、よし。おまえはしごをおさえてろ」  辰がはしごをのぼっていくと、さいわい窓のとびらはあいていて、金網ごしに二階がみえる。  土蔵のなかは暗かったが、しばらくのぞいているうちに。しだいに目がなれてきたらしく、ごたごたとおいたつづらやあけ荷のあいだに、だれやらうごめく影がみえた。  その影は苦しげにうめきながら、床からやっと身をおこしたが、どうやらまだ十六、七の娘らしい。しかも、娘はうしろ手にしばられて、さるぐつわをはめられている。  辰がぎょっと息をのんだとき、おもやのほうから、二、三人の足音……辰はそれをきくと、すべるようにはしごからとびおりていた。 「だれか忍びこんだ形跡があるというのは、ほんとうか」 「ふむ。さっき仕事場の戸があく音がした」 「だけど、仕事場の戸はしまっていたし、べつにかわったことはねえじゃねえか」 「といってゆだんは禁物。だんなのるすにまちがいでもあってみねえ、大目玉よ」  と、小声にささやきかわしながら、やってきたのは三人づれ。いずれもお店者《たなもの》らしい風体だが、人相といい、目つきといい、堅気のお店者としてはふにあいである。 三人は土蔵のそばまでくると、 「だれか忍びこんだとして、おもやにも仕事場にもまちがいないとすると……」 「心配なのはこの土蔵だ。土蔵のなかにはお蝶《ちょう》がいるはずだな」 「いったい、あのお蝶をいつまで土蔵のなかへとじこめておくんだろう」 「なに、十雨のやつがあぶなくてしようがねえ。すきがあったらお蝶にとびつこうとしやアがる。そこで、十雨から守るために、だんながここへお蝶をとじこめておくのさ」 「あぶねえのは十雨より、だんなじゃねえのか」 「あっはっは、ちがいねえ。まあ、とにかく錠前をしらべてみろ」  錠前にはなんの異状もなかった。 「北六、おまえ寝とぼけて、なにか勘ちがいしたんじゃねえか」 「とんでもない。たしかに仕事場のあく音がしたし、怪しいかげが抜け出すとこもみたんだ」 「そこまで言い張るなら捨ててはおけめえ。念のために、土蔵のまわりを調べてみろ」  三人は窓のしたまでくると、 「やっ、兄い、それ、みろ。土蔵の窓にはしごがかけてあるぜ」 「あっ、それじゃやっぱり……おい岩八、ちょっとはしごをのぼって、金網に異状はねえか調べてみろ」 「おっと、合点」  岩八はスルスルはしごをのぼって、 「兄い、べつに異状はねえようです」 「お蝶がそこにいるはずだが、だいじょうぶか」 「あっ、いるいる。恨めしそうにこちらをみてますぜ。なるほど、こりゃよい器量だ。だんなと十雨坊主がしのぎをけずるのもむりはねえ。ブルブルブル……」 「なにがブルブルだい。異状がなきゃ、はやく降りてこい」 「まあ、いいじゃありませんか。もう少し目の法楽をさせておくんなさい。がっくりと髷《まげ》がくずれて、恨めしそうにこちらを見ているところは……こりゃアもうたまらぬ」  と、夢中になってへんな腰つきをするはずみに、はしごがはずれてがらがらがら! 「わっ、た、助けてえ!」 「ざまアみろ、あんまり腎張《じんば》りゃアがるから、天罰があたったんだ。起きろ、起きろ、しっかりしねえか」 「起きろといったところで、腰っ骨がはずれてしまって……」 「だから、いいかげんに降りてこいといったんだ。それじゃ金網に異状はねえんだな」 「へえ」 「よし、土蔵に異状さえなきゃ、おまえの腰っ骨が折れようが、曲がろうがしったことか。おい、北六、いこうぜ」 「長太兄い、そら殺生《せっしょう》な。ひとつ両方から抱いておくんなさい」 「ええ、手数のかかる野郎だ。北六、左から抱いてやれ」 「ちっ、いくじのねえ野郎だ」  腰のぬけた岩八を、兄い分の長太と北六が左右からだきかかえ、五、六歩あるきかけたところへ、むこうからきこえてきたのは、 「どろぼう! どろぼう!」  というさけび声。それにつづいて、ドスン、バタンととりくむ物音。 「あっ、しまった。もうこうなりゃ、岩八、てめえなんざかまっちゃいられねえ。北六、おれといっしょにこい!」  と、腰ぬけ岩八をそこにのこして、長太と北六はいちもくさんにかけていく。 「兄い、そ、そりゃ殺生な。おいらもいっしょにつれてっておくんなさい」  岩八はなめくじのように地をはいながら、ふたりのあとを追うていたが、そのとき、ものかげをえらんでスタスタと、こっちへやってきた人影が、おもわず岩八につまずいて、 「あっ!」  と叫んでとびのこうとするその足へ、しっかとしがみついた岩八。 「あっ、われゃ利助だな。さては、どろぼうというのはてめえだったのか。おうい、みんなきてくれえ。どろぼうをつかまえた。利助をつかまえたぞオ!」 「ええい、岩八、やかましいやい!」  と、足をあげていやというほど、岩八の顔をけりあげた手代の利助は、 「あっ!」  と叫んでのけぞる岩八をあとにのこして、疾風《はやて》のごとく裏木戸から外へとびだした。  ものかげからその場の様子の一部始終を見ていた辰と豆六、ぼうぜんとして顔見合わせたが、ひょいと見あげた土蔵の壁には、山口屋の印がくっきりと書いてある。  それじゃ、ここは山口屋喜兵衛に縁のある家ではないか。山口屋喜兵衛の本店は、白銀町《しろがねちょう》にあるはずだが……。  銭屋五郎兵衛   ——銭五はなぜか死をいそいで 「ねえ、親分、そういうわけで、法恩寺わきのその家は、山口屋喜兵衛の寮だというんですが、そこにお蝶が押しこめられていることといい、十雨坊主がなかまらしいことといい、こりゃそうとうの詮議《せんぎ》ものですぜ」  辰と豆六から、くわしい報告をきいて、佐七はきらりと目を光らせると、 「じつはな、去年の春のにせ金づくりの一件だが、あれにはお上でも、頭をいためていらっしゃるんだ」 「お上で頭をいためてはるちゅうのんは?」  と、豆六もそばからひざをすすめる。 「いや、こんやもだれかがいってたが、去年の春のにせ金づくりの一件は、やはりお上の吟味ちがいじゃねえかと、いまになって、思いあたるふしがいろいろあるんだ。しかし、そういう吟味ちがいをしたのもむりはねえので、おかしいのは、当時の五郎兵衛の態度よ」 「へえ、五郎兵衛の態度がおかしいとは?」 「なんでもな、五郎兵衛のやつ、なにをきかれても恐れいりましたのいってんばり。なんだか、まことのことを打ち明けると、だれかに迷惑がかかることを恐れたらしく、それくらいなら、いっそ死んだほうがましだという、そんなそぶりだったそうな。とにかく、あんなに死にいそぎをした罪人もめずらしいと、当時、うちうちでも評判だったんだ」 「それじゃ、銭五はだれかをかばって、むじつの罪を引きうけたと……?」 「そうじゃねえかといううわさだ。そこで、五郎兵衛のせわになったひと、命をかけても、かばわねばならぬような人物をさがしたんだが、そういう人間も見当たらねえんだな。そこで、五郎兵衛のやつ、わざとそういうそぶりをして、罪をまぬがれようとしているのじゃないかと、かえってお憎しみがかかったわけだが、しかし、五郎兵衛がむやみに死にいそぎをしたことはたしからしい」 「それじゃ、五郎兵衛がかばっていたのは、もしや山口屋喜兵衛では……?」 「しかし、喜兵衛と五郎兵衛は、同業のよしみというだけ、まさか命をかけてまでかばうほどの義理はあるまい」 「そやけど、親分、喜兵衛はあの幽霊の見せ物で、いちばんまえにいよったやおまへんか。匕首《あいくち》を投げてお露を殺しよったんは……?」 「いや、それもおれは考えた。しかし、お露の胸につったった短刀は、真っ直角に立ってるんだ。喜兵衛のいるところから投げたとすれば、下から上向きに立たなきゃならねえ。だから、あれはやっぱり座敷から……」 「とすると、十雨坊主か利助のやつか」 「ふむ。しかし、山口屋の寮にお蝶がとじこめられているとすると、こりゃちとおだやかでねえ話だな」 「親分、だから、これからすぐに山口屋へふみこんで……」 「まあ、待て。そう早まっちゃいけねえ。ところで、利助がなにか、山口屋で探っていたらしいというんだな」 「どうやら、そうらしおまんねん」 「それで、そこにいるやつはみんなお蝶が土蔵のなかにいることを知ってるんだな」 「へえへえ、さようで」 「それがおかしいじゃないか」 「おかしいとは?」 「そいつらがお蝶のことを知ってるとすれば、利助も気がつかぬはずはねえ。だいいち、おまえたちみてえなとんまな連中でも……」 「えっ、お、親分」 「いま、なんといやはりました?」 「いやさ、いやなに、おめえたちみてえな目はしのきく連中が……よ」 「へっへっへ」 「さよ、さよ」 「なにがさよさよだ。あっはっは。まあ、いいや。おまえたちみたいな連中でも、すぐにそうしてお蝶のいどころを見つけるくらいだから、利助もとっくに気がついているはず。それだのに、利助はなぜ、恐れながらと訴えて出ねえのか、それがおれにはわからねえ」 「つまり、そこにいわくありというわけで?」 「そうよ。そして、それが五郎兵衛のふしぎな態度につながっているんじゃねえのか」  佐七はまた腕こまぬいてかんがえこんだ。  因果者くらげ坊主   ——世にもあさましい罪をおかして 「さあ、いらはい、いらはい、親の因果が子にむくい、世にもあわれなかたわ者、くらげ坊主とはこの子でござい。さあ、いらはい、いらはい」  浅草は奥山に、ズラリとならんだ、見せ物小屋のそのなかでも、ちかごろ、いちばん評判をよんでいるのは、このくらげ坊主。看板をみると、世にも醜悪な骨なしっ子の絵がかいてある。  このくらげ坊主の見せ物が、幽霊の見せ物とおなじテキ屋の親分、上総屋竹五郎の興行ときいて、お玉が池から足をはこんだ佐七をはじめ辰と豆六、なにげなく、表にたってこの醜悪な看板を見ているうちに、ふと耳にはいったのは、つぎのようなささやきである。 「兼公、おまえはしらねえか。このくらげむすこというのは、このあいだ、深川の六間堀で殺されたお露がうみおとした子だというぜ」 「えっ、それじゃ銭五の……?」 「そうよ。だから、ちょっと見ていこうじゃねえか」  と、木戸口からなかへはいったふたりづれを見送って、佐七は辰や豆六と顔見合わせた。  お露の乳首をみると、たしかに子どもをうんだ女とわかったが、それでは、お露は、このような因果物をうみおとしたのか……。  佐七はそぞろ哀れをもよおしたが、絵看板から目をそむけると、呼び込みの男にむかって、 「おい、にいちゃん、おれはお玉が池の佐七というもんだが、上総屋《かずさや》の親方はいま小屋かえ」 「あっ、これは親分、お見それいたしました。親方なら、いまむこうの三升《みます》でいっぱいやっておいででございますが……」 「ああ、それじゃ、辰、豆六」  と、辰と豆六をひきつれて、佐七がやってきたのは三升という小料理屋。  上総屋の親方がいたら、あいたいという申し入れにたいして、ことわられるかと思いのほか、すぐ奥座敷へ通されたが、みると竹五郎のまえにいるのは利助ではないか。 「ああ、親分、このあいだはとんだご無礼を……いずれはおみえになるだろうと、お待ちいたしておりました」  と、竹五郎は少しも悪びれたふうはない。 「いや、さっそくながら、上総屋、あのくらげ坊主というのは、お露の産んだ子だというがほんとうかえ」 「はい、さようで」  竹五郎は神妙な顔色で、 「ここにいる利助どんも、それをききにこられたんですが、親分、聞いてください。こういうわけで……」  と、竹五郎の語るところによるとこうだ。  去年の春のおわりごろ、竹五郎は身投げをしようとする娘を救った。  それがお露で、お露はそのとき身重になっていた。竹五郎がそれをいたわって、家において身二つにさせたが、そのとき産まれたのが、骨なしのくらげ坊主だ。 「あれを見せ物にいたしましたのは、お露ちゃんも承知のうえのことで……」 「なるほど。ところで、親方、あの幽霊の見せ物というのはどういうんだえ」 「あれもお露ちゃんの頼みなんで……」 「お露ちゃんの頼みというと……?」 「お露ちゃんは、五風庵十雨という男にあって、ひとこと尋ねたいことがあるといっておりました。ところが、その十雨のいどころがわかりません。そこで、ああいう見せ物を出したら、きっと十雨が見にくるだろうと……」 「しかし、親方、お露は十雨に、なにをきこうとしたんだえ」 「さあ、それはあっしにもいいませんでしたが、悪者のわるだくみにかかって、じぶんは世にもあさましい罪をおかした。そうしてやどしたのがあの十吉、その悪者の発頭人というのを、十雨が知っているはず、それがひとこと聞きたいと……」 「それじゃ、あの十吉というくらげ坊主は、十雨の子じゃあないんですか」  と、利助の目はものにくるったようである。 「どうもそうじゃなさそうです。十雨の子と思わせるため、わざと十吉と名づけたが、ほんとの父親はほかにあるらしい」 「利助どん、おまえさんはお露と十雨が、いっしょに寝ているところを見たというじゃないか……」 「はい、見ました。ハッキリこの目でみたんです」 「お露は十雨にむりむたいに、手込めにされていたんじゃねえのか」 「いいえ、親分、そうは見えませんでした」  と、利助はまた、ものにくるったような目になって、 「わたしの見たのは夏場でしたが、十雨坊主は素っ裸、あのあぶらぎったからだで、しっかりうえからお露さんを抱いておりました。お露さんはお露さんであられもない赤い湯文字《ゆもじ》ひとつの裸もどうぜん、むきだしになった両手両足で、力いっぱい十雨坊主を抱きしめて……」  利助はそこでちょっと絶句したが、 「お露さんはもう、十雨坊主のいいなりほうだい。十雨坊主がねこなで声でなにかいうと、お露さんはいやな顔ひとつせず、十雨坊主の好きなようにさせるんです。そして、そして、じぶんも息もたえだえにあえぎにあえいで、はてはお師匠《つしょ》さん、お師匠さんと、気がくるったように……」  さすがに利助も、それからさきはいいかねたが、くやし涙をいっぱいうかべ、 「わたしゃあんまりくやしいもんですから、かえってだんなに申し上げると、だんなはポロポロ泣きながら、お露のことはあきらめてくれ。あれはもうけがれはてたからだだ。お露のかわりにお蝶を嫁にもらってくれ。おれはもう死んでしまいたいと、両手で小鬢《こびん》をかきむしって……」  それをきくと、佐七はふっと顔色をくもらせた。  お露のいった世にもあさましい罪、そして、その結果、やどしたのがあの十吉……それはいったいなにを意味するのだろうか。  堕地獄銭屋一族   ——はらみ女ではあまりゾッとしねえ 「あっはっは、お蝶、泣くのはよせ。いくら泣いたとてかなわぬことだ。おまえの姉のお露のからだで、おれはさんざん楽しませてもろうたが、しかし、お露がおれのものになったとき、あの娘はもう生娘ではなかった。げんざい、おのれの父親のタネを宿していたんだ。うっふっふ」  そこは法恩寺わきにある山口屋の寮の土蔵の中、十雨はどくどくしく笑いながら、かたわらにおいた千両箱から、いちまい、いちまい、小判をだしては改めている。  ゆかたをきているとはいうものの、もろはだぬぎの大あぐら、ふんどしをしめているからよいようなものの、そうでなかったら裸もどうよう。あぶらぎった大兵肥満《だいひょうひまん》の胸から、下っ腹へかけて、くまのような毛が密生している。  そばにはさるぐつわをはめられ、うしろ手にしばられたお蝶が、身も世もあらず泣き伏している。  いま十雨が口走ったこのおそろしい秘密こそ、銭屋五郎兵衛を死にいそがせ、お蝶を不法監禁に甘んじさせている切り札なのだ。 「それにしても、悪いやつは山口屋喜兵衛だ。じぶんのめかけの深川芸者、お米《よね》というのにそれとはしらず、おまえのおやじがほれたのをさいわいに、取りもってやろうと持ちかけた。おまえのおやじはなんにもしらず、大喜びでこの寮へやってきたのよ。そして、お米といっぱい飲んだそのあとで、はなれ座敷へお米とひけたが、くらがりのなかでお米と思って抱いて寝た女が、あにはあからんや、じぶんの娘だとわかったときのおやじの驚き……」  このあさましい不倫の物語に、お蝶は身をもみにもんで泣きむせぶ。そのポッチャリとした腰のあたりに、十雨はみだらに血走る目を走らせながら、 「それじゃ、お露がどうしてここへきていたかというと、それはこうよ、発句も家のなかにとじこもってばかりいちゃ上達しねえ、たまにゃ吟行もやらにゃアと持ちかけ、おれがここまでひっぱりだし、飲ませた酒に仕掛けがあった。お露はほんの杯に一杯か二杯しかのまなかったが、そこにゃ眠り薬ともうひとつ、男がほしくてたまらなくなる南蛮渡来のほれ薬がしこんであったのよ」  十雨坊主は血走った目をギタギタさせながら、 「そんなからだで、おまえのおやじにお米とまちがえられたもんだから、ふびんや、お露はたったいちどのこのあやまちで、おやじのタネをやどしてしもうた。これを取りつくろうには、だれか腹の子の父親になる男がいる。そこで、このおれに白羽の矢が立ったのだが、正直いってはらみ女では、あんまりぞっとしなかったぞ。あっはっは」  十雨はみだらがましい笑い声をあげると、なめるような目で、お蝶の腰の曲線をみつめながら、 「そこへいくと、おまえはまだ手入らずの生娘だ。その柔らかそうな、ポチャポチャとしたもちはだを、いまにこってり賞玩《しょうがん》させてもらうのかと思うと、あっはっは、いままでさんざんいろんな女とあそんできたこのおれだが、のどがぐいぐい鳴るようだて」  十雨は千寮箱からつかみだした小判を、チャリンチャリンと鳴らしながら、 「いや、まったく、よくできてるわ。これじゃだれもにせ小判とはおもうまい。わるいやつはあの喜兵衛だ。じぶんでにせ小判をつくっておきながら、五郎兵衛に罪をなすりつけおった。うっかり五郎兵衛が口をわったら、お露のことをばらすとおどかされ、五郎兵衛はおのれの恥、娘の恥を思うのあまり、ふびんや、なにもかも背負うていきおった」  さっきからきれぎれにつづいているお蝶の嗚咽《おえつ》の声が、ここでいっそう高くなる。 「おお、もっともだ、もっともだ。さぞくやしかろう、悲しかろう。悪いというてあの喜兵衛ほどわるいやつは世にあるまい。しかし、なあ、お蝶、ことわざにもいうじゃろうが。悪さかんなれば天に勝つと。いまの喜兵衛がちょうどそれじゃ。しかし、いずれは、天さまだって悪を滅ぼすというが、その天というのがこのわしじゃ。この十雨坊主じゃ」  十雨坊主はかってなことをほざきながら、しだいにお蝶のほうににじりより、 「ちょうどさいわい、こんやはその喜兵衛も、お米のところへしけこんだし、さいわい手にはいる土蔵のかぎ、若いもんには酒に眠りぐすりをまぜて眠らせておいた。こんなことは二度とない首尾、これ、お蝶坊、おとなしくおれのいうことを聞け。そしたら、きっとおまえのおやじと、お露のかたきは討ってやる。それでもまだ強情はると、かわいさあまって憎さが百倍、おまえのおとっつぁんやねえちゃんの恥が、パッと世間にしれてしまうぞ、な、わかったろうがな。いっひっひ」  お蝶のそばへすりよった十雨坊主、さるぐつわといましめを解いてやると、むりやりにひざのうえへ抱きあげたが、裸どうようのそのからだは、燃えに燃えて、はちきれそうになっている。  丸太ン棒ほどあるふとい左手で、お蝶のからだを抱きすくめると、右手をのばしてお蝶のすそをわりにかかる。 「あれ、かんにんして……」 「あっはっは、なにもこわがることはねえ。おまえのねえちゃんなんか、こうしてやると、ずいぶんうれしがったもんだ。ほら、ほら、いい娘《こ》だ、いい娘だ……」 「あれ、おじさん、かんにんして……」  お蝶は小すずめのようにふるえながら、十雨の手を拒もうとするのだが、その抵抗はいたって微弱なものだった。  はじめて聞いた父と姉との、世にも悲しい、世にもあさましい秘密の暴露が、かよわいお蝶の心身から、抵抗する気力をうばい去っていた。  そのころの人間のつねとして、一家の恥、一門の恥辱ということをひどく恐れる。じぶんを犠牲にしてでも、その秘密を守りぬこうという自己犠牲心、それがお蝶の心身から、抵抗する気力をうばうのである。  このままほうっておいたら、お蝶もいまに、このあぶらぎった四十男の、あの手この手にひっかかって、姉の二の舞いを演じることは必至であろう。  いまや燃えたぎっている十雨は、朱を刷いたような満面|笑《え》みくずれながら、 「そうか、そうか、おまえもどうやら、その気になってくれたようだな。それではこうして……」  帯をとかれたお蝶は、とうとうあおむけに押しころがされた。全身のおもみをかけて、そのうえからのしかかってきた十雨は、お蝶のみだれたすそをさらに大きく左右にかっさばこうとしていたが、その鼻先へ降ってわいたような声。 「おい、十雨、えろうまた、はでなまねをやらかすじゃアねえか」  文字どおり十雨にとって、それは青天の霹靂《へきれき》だった。 「なにを!」  と、かま首もたげた十雨坊主、そこに立っている佐七をはじめ、辰と豆六が目にはいると、 「こ、この野郎!」  お蝶のうえからはねおきると、ふんどしのまえをとりつくろうひまもあらばこそ、そこにある千両箱から、わしづかみにした小判を投げつける。バラバラと降ってくる小判の雨をよけながら、 「十雨、神妙にしろ! 喜兵衛をはじめにせ金づくりの一味のもの、ことごとく捕えられたぞ」  腹にしみいる佐七の一言に、十雨もべったり、むきだしの大きなおしりをそこに落とした。  お蝶はまだあおむきに、押したおされたままの姿勢でいたが、かたくとじた両眼から、涙が滝のようにあふれていた……。 「しかし、親分、お露をころしたのは、やっぱりあの十雨なんですかねえ」  一件ことごとく落着したのちになっても、辰と豆六にただひとつ、ふにおちないのはそのことだった。 「いや、そうじゃねえ。お露を殺したのは、やはり山口屋喜兵衛らしい」 「だけど、親分」  と、豆六は口をとんがらせて、 「喜兵衛が匕首《あいくち》を投げつけたんなら、下からうわむきに立つはずや。しかるに、お露の胸の短刀は、まっすぐに立っていたと、いやはったやおまへんか」 「それをいわれれば一言もねえ」  佐七は頭をかきながら、 「それはお露がまっすぐに立っていたばあいのことだな。しかし、考えてみれば、幽霊がまっすぐに、しゃちこばってるはずがねえ。うつむきかげんに上体を、まえへ倒しているところへ、下から短刀を投げあげたから、からだを直角に突っ立ったんだ。それを見落としていたこのおれも……」 「へえへえ、それを見落としていた親分も……?」 「だれかさんやだれかさんに、似たりよったりのとんま野郎よ」 「えっへっへ」 「へえ、どうもおおきに」  銭屋の再興がゆるされて、お蝶は利助と夫婦になると、あのあわれなくらげむすこをひきとったが、このような因果な子のそだつはずはなく、その後まもなく死んだというが、死んだほうが、この子にとってもしあわせだったろう。     地獄の花嫁  かわら版浮き世の読み売り   ——ぼらの腹からふらちな手紙が出たよ  現今ではラジオというちょうほうなものがあって、なにか大きな事件があると、数時間もたたぬうちに、世間にしれわたってしまうが、では、そういう文明の利器のなかった江戸時代には、ニュースがなかなか伝わらなかったかというと、そういうわけでのものでもなかったようだ。  人間の耳から耳へとつたわる伝播力《でんぱんりょく》の敏活さは、案外バカにならぬもので、赤穂《あこう》浪士の討ち入り、丸橋|忠弥《ちゅうや》の召し捕《と》りなどという大事件は、その日のうちに、江戸じゅうにしれわたったようである。  それに、新聞もラジオもない時代でも、それそうとうの宣伝機関はあったもので、ぞくにいう、かわら版というやつがそれである。  かわら版というのは、粗悪な印刷の小冊子で、珍奇な浮き世のできごとの、せいぜいいきのいいところを、おもしろおかしく書きつづり、それを街頭で読み売りしたものである。  それは残暑もまだきびしい八月十五日の昼さがり、その読み売りが、浅草見付けへやってきたから、たちまち、あたりは黒山のようなひとだかり、その読み売りのうたい文句を聞いてみると、 「さあて、お立ち会い、これはこのたび、前代未聞の大椿事《だいちんじ》、大事件じゃよ。ぼらの腹から、たいへんなものがとび出したよ。さても、世のなかは恐ろしゅうなったものじゃ。持参金めあてに嫁をもろうて、その花嫁を殺そうとたくらんでいるやつがあるという、世にも奇怪な大椿事。  え? どうしてそれがわかったかって? そこが、それ、天網|恢恢《かいかい》じゃ。ふらちな亭主が情婦にやった手紙というのが、ひょんなところから見つかったよ。どこから見つかったかというと、なんと、お立ち会い、ぼらの腹からみつかったよ。いいや、作りごとじゃないよ、ほんとのことじゃよ。  さても、きのうさるご仁が、海へつりにいったとおもわっしゃい。そこでつれたのが、目の下三尺という大ぼらじゃ。そいつをうちへ持ってかえって、料理しようとしたところが、腹のなかから女持ちの紙入れが出てきたよ。その紙入れのなかからあらわれたのが、いまいったおそろしいたくらみの手紙じゃ。  さて、その手紙をちょっと読んでみようなら、前略……と、あのような人三《にんさん》化け七《しち》の女房に、なんで未練これあり候《そうろう》や。声をきくさえぞっとはだ寒うなる化け物女房、一日もはやくわかれたいと思い候えども、持参金のてまえそうもなりかね、いままでしんぼうつかまつり候えども、もうもうこのうえがまんをつづけ候節は、こちとらの命が持たず候あいだ、いよいよちかいうちに非常手段にうったえても……。  おっと、みなまで読んでは商売にならない。さあさ、お立ち会い、おまえさんがたに心当たりはないか。持参金までもたせた娘が、かわいや、ちかいうちに殺されようというたくらみのふしぶし、みんなこの手紙に書いてある。いや、そればかりじゃないよ、男の名まえも女の名まえもちゃんとここに出ているよ。さあさ、ぼらの腹からでた手紙、情婦とはかって、花嫁を殺そうという前代未聞の大椿事《だいちんじ》、世にも恐ろしいたくらみのかずかず……へえ、どうもありがとうございます」 「おい、読み売り、こっちへもおくれ」 「わたしにもおくれな」 「へえへえ、ありがとうございます。さあさ、前代未聞の大椿事、ぼらの腹から出た手紙、へえ、ありがとうござい」  ぼらの腹から出た手紙というのが、ひとびとの好奇心にうったえたらしく、あちらからも、こちらからも声がかかって、かわら版はみるみるうちに売れていく。 「親分、こっちもひとつ、買ってみようじゃありませんか」 「そうよなあ」 「なんや、おもしろそうやおまへんか。ぼらの腹から出たちゅうところが妙や。ひとつ買おやおまへんか」 「あっはっは、うそかまことかしらねえが、それじゃひとつだまされてみるか。豆六、買ってみろ」  黒山のようなひとだかりから、少しはなれたうしろに立って、こんなささやきをかわしている三人を、いまさらどこのなにがしと、開きなおって説明申し上げるまでもあるまい。  当時江戸いちばんとうたわれた捕物名人、神田お玉が池は人形佐七とふたりの子分、きんちゃくの辰とうらなりの豆六であることは、みなさま、せんこくご承知のはず。  きょうは浅草に用事があって、見付けまでさしかかったところで、この読み売りにぶつかって、立て板に水をながすような口上に、おもわず聞きほれていたというわけである。 「ちょっとどいてんか。じゃまになるがな、おい、読み売り、こっちにもひとつおくれえな」  人がきをかきわけて、なかへわりこもうとする豆六のそでを、そのとき、そっとうしろから引いたものがある。 「あの、もし、お願いでございます」 「ひえっ」  だしぬけのことだから、豆六がびっくりしてふりかえると、あいては十七、八の色の白い、ちょっと渋皮のむけた娘である。なりをみると、大家の女中か小間使いというところ。  きりりしゃんとしたものごし、口のききかた、いかにもしっかり者らしいが、どういうものか、まゆにうっすら、不安の色がただようている。  上くちびるの右のはしに、小さなほくろがあるのも、さびしく目だった。 「へえ、わてになにかご用だっか」 「恐れ入りますが、読み売りをお買いになるのでしたら、わたしにも買ってくださいませんか」  と、懐中から紙入れを出そうとするのを、 「へえ、そら、おやすいご用だす。あんた、お金なんかいりまへんぜ。読み売りなんてやすいもんや」  豆六め、あいてをわかい女とみて、いやに気まえのいいところをみせている。 「いえ、あの、それではなんですから、どうぞこれで……」 「さよか、そんならもろときまほか。おい、読み売り、こっちへ二枚や」  黒山のような人だかりをかきわけて、豆六はやっと二枚手に入れると、 「さあ、どうぞ」 「はい、ありがとうございます」  半紙|半截《はんさい》、六枚とじの粗悪なかわら版をうけとると、女はなにか気になることがあるらしく、取る手おそしとそれをひらいて、食い入るように目をとおしていたが、みるみるうちに顔色がかわって、 「ああ、やっぱり……」  と、ただひとこと、おびえたように口のうちでつぶやくと、よろめくように立ち去っていく。  なにかしら、物《もの》の怪《け》におそわれたような、恐怖のいろがさむざむと、うしろ姿をつつんでいる。  あだ情け化け物女房   ——近く一刀両断につかまつるべく候 「おい、豆六、いまのお女中はどうしたんだ」 「さあ、どないしたんかしりまへんが、読み売りを買《こ》うてくれちゅうので買うてやったら、なんやえろうおびえてましたな」 「親分、ひょっとすると、あの女、その読み売りに、なにか心当たりがあるのじゃありますまいか」 「そうかもしれねえ、おい辰、豆六、いまの女をさがしてみろ」  しかし、そのころには女の姿は、もうどこにもみえなかったのである。 「みえねえか。それじゃしかたがねえ。とにかく、この読み売りを読んでみようよ」  浅草見付けから左を見ると、柳原堤がつづいている。  三人はその土手の人っけのないところへしゃがんで、いま買ったかわら版をひらいてみる。  かわら版の文章は、だいたい、読み売りが述べたてた口上とかわりなく、きのう、さる人物が佃《つくだ》の沖でつり糸をたれていたところが、目の下三尺もあろうという大きなぼらがひっかかった。  それを家に持ってかえって包丁をいれると、腹のなかから小さい女持ちの紙入れがあらわれたが、その紙入れのなかから、一通の手紙が出てきたというのである。  以上のような文句のしたに、お武家らしい人物が、大きなぼらをつりあげているところや、ぼらのはらをかっさばいて、紙入れを取りだしているところ、さてはまた、手紙を読んでおどろいているところなどが、へたくそな絵でかいてあったが、さて、そのあとに、手紙というのがのせてある。それは水につかって読めなくなったところや、また、破けて判読しにくいところもあるが、判読しうるかぎり原文のまま掲載するとことわってあり、だいたいつぎのような文章である。 [#ここから2字下げ] ——そもじさまのおんうらみ、けっしてむりとは思い候《そうら》わねども、なにぶんにも、大枚の持参金を背負うてきた女房、いますぐどうするというわけにもまいらず……けっして心変わりなどいたせしわけにはこれなく、一日も早くそもじさまと、晴れて夫婦にと思いくらしおり候えども、なにぶんにも世間のてまえもこれあり候こととて…… ……そもじさまのおん疑いはちと情けなく、あのような人三化け七の女房に、なんで未練これあり候や、声をきくさえ、ぞっとはだ寒うなる化け物女房、一日もはやくわかれたいと思い候えども、持参金のてまえそうもなりかね、いままでしんぼうつかまり候えども、もうこのうえがまんをつづけ候節は、こちらの命がもたず候あいだ、いよいよちかいうちに非常手段にうったえても…… [#ここで字下げ終わり] 「親分、非常手段てなんでしょうね」  辰はつばをのみこんだ。 「まあ、待て、しまいまで読んでしまおう」 [#ここから2字下げ] ……いかに持参金目当ての女房とはいえ、祝言すませ候うえは、夫婦の語らいせぬわけにはまいらず、夫婦の語らいあるうえは、懐妊するもよんどころなく、それをそもじさまにうらまれては、立つ瀬がこれなく候…… [#ここで字下げ終わり] 「ははあ。すると、女房のやつが懐妊したんで、情婦のほうがやきもちやいてんねんやな」  豆六もなまつばをのんでいる。佐七はそれにいさいかまわず、かわら版を読みつづける。 [#ここから2字下げ] ……聞けばもう五カ月とやら、あのような化け物の腹からいかなる子どもがうまれるやらと、このほうとても心いぶせく、一日も早く腹の子もろとも始末つけねばと、ちかごろは心のみあせりおり候、それについて思いつき候は、ちかくおこなわれる○○○のみぎり、思いきって一刀両断……それならばまさかこのほうが手にかけたと世間にしれる気づかいもなく、きっとけがあやまちにて、ことすむべしと思いおり候が、いかがなものに候や。 [#ここで字下げ終わり]  三人はぞっとしたように顔見あわせる。 「親分、○○○のみぎりってなんのことです」 「それがわからねえ。そこのところが破けていたのか、欠字じなっていやアがる」 「いずれにしても、○○○のみぎりに、けがあやまちみたいにして、女房を殺そちゅうわけやな」 「どうもそうらしい。ついでにしまいまで読んでしまうから、だまって聞いてろ」 [#ここから2字下げ] ……ただ、ここに気がかりなのは、○○郎のことにて候。あいつは以前より、そもじさまとこのほうとのなかをかんづき、化け物女房に同情をしめしおり候えば、ひょっとすれば、疑いをまねくやもはかられず……毒くらわばさらまでということもこれあり候まま、その節はあいつもいっそ……と決心つかまりおり候。 ……かかるおそろしき決心をいたし候も、これひとえにそもじさまのおんためゆえ、このことばかりは肝に銘じて、かならずうわきなどなさるまじく……晴れて夫婦と名のれる日ももはやまぢかに候えば、なにとぞそれを楽しみに、お待ちくだされたく、まずは一筆しめし参らせ候。このこと、かならずひとにさとられぬよう、いずれまたくわしくお打ち合わせ申し上ぐべく候。  こがるる   ○之助より  恋しき   お○代どのまいる [#ここで字下げ終わり]  読みおわった三人は、おもわずぞっと首をすくめた。  なにかしら、うすら寒くなるような恐ろしさが、三人の背筋をはいのぼるのである。 「親分、こらほんまだっしゃろか」  さすがのんきな豆六も、おもわず息をのんでいる。 「うそかまことかわからねえが、もし、これがほんととすると、こういうことになるんですね。○之助という男が、持参金めあてに化け物のような女房をもらったが、そいつにゃお○代という情婦《いろ》があって、それにせつかれるままに、女房をころそうということですね」 「そういうことになるようだな」  佐七もくらい顔をしている。 「ところが、ここに○○郎という男があって、そいつが○之助とお○代のなかを疑っている。だから、ここで女房を殺せば、きっとそいつが疑うだろうから、そうなったらしかたがない、ついでに○○郎も殺してしまおうと……」  佐七はまた無言のままうなずいた。 「親分、こりゃなんとか手を打たなきゃアなりませんぜ。いかに人三化け七だって、このまま見殺しにするってことはありますめえ」 「しかし、辰、手をうつって、どううつんだ。ここにゃかんじんの名まえは、みんな虫食いになっている。○之助だの、お○代だの、○○郎だのと、これじゃどこのだれともわからねえ」 「親分、わからんちゅうたかて、これをこのまま……」 「だからよ、辰、豆六、おまえたち、これからかわら版の版元へいって、ぼらをつった男というのを調べてこい。ここにゃ名まえはねえが、さし絵を見るとお武家らしい」 「おっと合点だ、親分、版元というのは」  佐七はかわら版の奥付けをみて、 「浅草馬道の文運堂と書いてある。あのへんへいって聞きゃアわかるだろう」 「おっと、合点だ。それじゃ豆六、出かけようぜ」  下っ引きはしりがかるくなくちゃ、つとまらない。辰と豆六はしりはしょって駆けだした。  こうして、佐七は思わぬことから、この一件に手をそめることになったのだが、あとから思えばそのときには、すでに手おくれになっていたのである。  ぼらの腹から発見されたあのおそろしい手紙に書いてある悪魔のような計画は、そのころすでに第一歩を踏み出していたのである。  伝言ほくろの女   ——今夜両国へ舟を出してください  このところ、佐七は奥歯にもののはさまったようないらだたしさにおちつかなかった。  あの日、辰と豆六をやって版元を調べさせたが、その結果わかったところによると、ぼらをつりあげたのは、山の宿にすむ久米《くめ》典山という浪人者の辻講釈師だった。  久米典山なら佐七もよく知っている。  どこの浪人だかしらないが、ずいぶん昔から、浅草奥山によしず張りの小屋をかまえて、張り扇をたたいて、なかなか人気のある講釈師である。  いつも羊羹《ようかん》色の紋付の着流しに、総髪の髷節《まげぶし》が忠臣蔵のしばいに出てくる加古川本蔵というかっこう。  としは五十前後だろうが、にがみばしったいい男で、若いころには、ずいぶん、女を泣かせたものだときいている。  その典山がぼらの本人だときいて、佐七は目をまるくした。 「なんだ。それじゃ、講釈師、見てきたようなうそをつきで、典山のこしらえごとじゃねえのか」 「へえ、あっしらもそう思ったもんですから、ついでに山の宿へまわって、典山のところへよってみましたが、まんざらうそじゃねえらしいんです。典山がきのう佃沖へつりにいったこともほんとうですし、大きなぼらをつってかえったことも、近所でみんな知ってるんです」 「しかし、そのぼらの腹から、女持ちの紙入れがあらわれたというのは……?」 「いえ、それも、ほんまだす。あんまり大きなぼらやで、典山もごじまんで、長屋の連中をあつめて、みんなの目のまえで包丁を入れたところが、臓腑《ぞうふ》のなかから、紙入れが出てきたんやそうで……」 「おまえたち、典山に会ってきたのか」 「へえ、会いました。紙入れや手紙もみせてもらったんです。典山がいうのにゃ、紙入れがぼらの腹へはいってから、それほど日数がたっているはずはねえから、手紙にある女房殺しもまだかもしれねえ。そこで、文運堂へ持ち込んで、おおいそぎでかわら版にして触れ歩いてもらったは、ひょっとすると、それによって、ねらわれている女房が気がついて用心するか、それとも亭主や情婦が差しひかえるか、いずれにしてもこのたくらみを未然に防ぐためだということです」 「なるほど、そりゃ一理ある考えだな」  佐七はだまって考えていたが、 「それで、手紙はどうなんだ。やっぱり名まえが欠字になっているのか」 「さよさよ、だいたいその手紙ちゅうのんが、水につかったもんやさかい、墨がにじんで、ずいぶん読みにくうなってますが、とりわけ、名まえのところだけ運悪う、破けたり、墨が散ったりで、かわら版にあるとおり、半分だけしか読めまへんねん」 「しかし、ねえ、親分」  と、辰はひざをすすめて、 「○之助だの、お○代だの、○○郎といったんじゃ、われわれにゃわかりませんが、関係者が読んだら、きっと思いあたるところがあるにちがいねえ。そこで思い出したんですが、豆六にかわら版を買わせた女ですがね。ありゃやっぱりこの一件に、かかりあいがあるんじゃありますまいか」 「ふむ、そうかもしれねえ。おい、豆六、その女は上くちびるにほくろがあるといったな」 「さよさよ。どこか大家の女中か、小間使いみたいなかっこうだしたな。こんなことと知ったら、逃がすんやおまへなんだのに……」  豆六も残念だったが、けっきょくいくら評議をしたところで○之助だの、お○代だの、○○郎というのがわからない以上、いかなる捕物名人でも手の打ちようがなく、こうしているうちにも手紙にある○○○のみぎりというのがやってきて、かわいそうな花嫁が殺されるのじゃあるまいかと、佐七は気が気でなかったのである。  こうしていたずらに三日と過ぎ、五日とたった八月の十五日のこと。佐七が夕がた、辰や豆六と外からかえってくると、女房のお粂が、 「あら、おまえさん、ひと足ちがいだったが、そこらで会やアしなかったかえ」 「お客人でもあったのかえ」 「ほら、このあいだから、おまえさんたちが話している、上くちびるにほくろのあるお女中が……」 「なに、なんだと。それじゃア、その女がやってきたのか」 「ええ、ずいぶんながく待っていたんですけど、あまりおそくなるからと、ついいまかえったばっかりで……」 「そして、お粂、なにかいっていたか。いったい、どこからきたんだ」 「それが、どうしてもいわないんです。あたしもずいぶんしつこく聞いたんですけれど……でも、かえりにひとこと、こんなことをいっていきました。今夜、両国橋の上手、首尾の松のへんに舟を出してみてくださいって」  それを聞いて、佐七ははっと、辰や豆六と顔見合わせた。  八月十五日——今夜は舟遊びの晩である。  ひょっとすると、手紙にあった○○○のみぎりというのは、舟遊び[#「舟遊び」に傍点]のみぎりということばではあるまいか。  花嫁は水色ずきん   ——船の底から水が……水が……  江戸時代の両国の夕涼みは、五月二十八日にはじまって、八月二十八日におわることになっていたが、わけてもにぎわったのは、八月十五日の夜の舟遊び。  この夜は貴賎《きせん》男女、舟をかざっておしだし、笛太鼓、小唄三味線、おもいおもいの慰みのほか、舟ごとにわれおとらじと揚げる花火に、大川端《おおかわばた》から三股《みつまた》へかけてのにぎわいは、さしもひろい川のうえも、ごったがえすばかりである。  佐七はなじみの船宿にたのんで、舟を出してもらったが、豆六はもう目をまるくして、 「わっ、こらえらいにぎわいやな。あっちゃでもこっちゃでも、芸者がはいってドンチャン騒ぎ、兄い、あのボーンというドラの音がするのんは、あらなんだす」 「あれは声色屋よ。ああして夕涼みのお客さんに、ごひいきの役者の声色をつかって、ごきげんをうかがってまわってるんだ」 「さよか。みんな景気がようてよろしおまんな。それにひきかえ、こょちゃの舟は、野郎が三人、毛脛《けずね》をかかえて、ねっからおもしろおかしゅうおまへんな」 「あっはっは、豆六、いやみをいうな、今夜は遊びじゃねえ。御用だからしんぼうしろ」 「なんぼ御用やかて、せめてお酒とすしくらい。なあ、兄い」 「あっはっは、あいかわらず食い意地がはってやアがる。それより、ほくろの女がいねえか気をつけろ。大家の女中か小間使いみたいななりだといったな。船頭さん、屋根船、屋形船、なんでもいいから、りっぱな船がいたら、かたっぱしからそばへこぎよせてみてくれ」  両国橋もかみてへくると、いくらか静かになる。  なかに屋根船のあかりを消して、みょうに静まりかえっているのは、いったいなにをしているのか、辰や豆六は気になることである。 「ちっ、いまいましい。ひとの気もしらねえで……」  辰は舌打ちしていたが、そのとき豆六が、 「あっ、親分、きとる、きとる。あそこにいるのん、あら、久米典山やおまへんか」 「久米典山がきてると」  佐七もぎょっとむこうをみれば、なるほど、角行燈《かくあんどん》をかかげた舟に、拍子台をおいて、しきりに張り扇をたたいているのは、見おぼえのある講釈師の久米典山。  まわりを五、六隻の涼み船がとりまいている。 「はてな、典山のやつかせぎにきたのか、それともなにかもくろみがあるのじゃねえか」  佐七はふっと胸騒ぎをおぼえたが、そのとき水にのってきこえてきたのは、琴、三味線、尺八と、風流な三曲の音、みれば首尾の松の沖合いに、ごうせいな屋形船がうかんでいて、まきあげたすだれのなかに、五、六人の人影がみえる。  佐七は典山のこともわすれて、 「船頭さん、すまねえが、ちょっとあの船のほうへやってみてくれ」 「へえ、ようがす」  そばへ近づいてそれとなくなかをのぞくと、三曲をあわせているのは、ひとりの男とふたりの女。男はとしごろ二十五、六、涼しそうな帷子《かたびら》をきて、尺八を吹いている姿が絵にかいたようにうつくしい。  その男からすこしはなれて、三味線をひいているのは二十前後のこれまたふるいつきたいような美人である。  むろん、くろうとではない。  いずれは大家のお嬢さんと思われるが、どこか屋敷ふうのところもみえる。  ところで、もうひとり琴をひいている女だが、そのほうへ目をやったとたん、佐七をはじめ辰と豆六、おもわずふっと顔見合わせた。  からだのかっこう、衣装の好み、その女も二十前後とおもわれるが、ふしぎなことには頭からすっぽりと、水色のずきんのようなものを顔にたれているのである。 「親分、あれゃアなんでしょう。どうして顔をかくしてるんでしょう」 「妙だな」  と、佐七も首をかしげて、 「おい、豆六、あのなかにほくろの女はいねえか」  船の中には、三曲をあわせている三人の男女のほかに、五十ばかりの品のいい切り髪の老婆、それから二十二、三の、これまた大店《おおだな》の若だんなといったかっこうの、色白の華奢《きゃしゃ》な若者。  ほかに女中らしいのがふたりはべっているが、ほくろの女は見当たらなかった。 「親分、おらんようだすな。ずきんをかぶった女がそうなら、わかりまへんが……」 「まさか……ありゃア女中じゃねえな」  屋形船の周囲には、三曲をきこうと五、六隻の舟がむらがっている。  佐七は一隻の舟の客をとらえて、 「もし、ちょっとおたずねいたしますが、あの屋形船はどちらさんのでございます」 「ああ、あれですか、あれは日本橋の亀屋《かめや》さんの持ち船で、天地丸というんですよ」  それをきいて、佐七は辰や豆六と顔見合わせた。  日本橋の亀屋といえば、江戸じゅうで知らぬものはない。河村《かわむら》という名字から帯刀までゆるされて、江戸でも有名な町名主、日本橋でも目抜きの数カ町をあずかる由緒《ゆいしょ》ある家がらである。 「なるほど。すると、あのお年寄りは……?」 「お甲さんといって、亀屋さんのご隠居さんなんです。尺八を吹いているのがお甲さんのひとりむすこ、世之助《よのすけ》さんといって、いまでは亀屋さんのご当主、それからずきんをかぶっているのが、去年おもらいなすったお嫁さんのお夕さま。三味線を弾いているのはお美代《みよ》さんといって、亀屋の分家のお嬢さん。ことしの春まで、さるお大名の奥向きへご奉公をしていらっしゃったんです」  世之助にお美代……佐七はどきっと胸がおどった。 「そしてもうひとりの若い衆は……?」 「あれは清次郎さんといって、先代の妾腹《しょうふく》の子、つまり世之助さんにとっちゃ腹ちがいの弟となるわけです」  ああ、もうまちがいはない。  世之助とお美代と清次郎……あのぼらの腹から出た手紙の、○之助とお○代と○○郎に、ぴったり当てはまるではないか。 「しかし、世之助さんのご新造《しんぞ》、お夕さんというのは、どうしてずきんなんかかぶっているんです」 「ああ、それは……」  と、となりの舟の客がいいかけたときである。  だしぬけに亀屋の舟から、女の金切り声がきこえてきた。 「あれ、ご隠居さま、船の底から水が、水が……」  女中のひとりが騒ぎだしたからたまらない。三曲をあわせていた三人をはじめ、お甲も清次郎も、もうひとりの女中も、いっせいに立ちあがったが、それがいけなかったのである。  ぐらりと屋形船がかたむいたとたん、だれが突いたか、それともじぶんのあやまちか、ずきんをかぶったお夕さまが、もんどりうって川のなかへ落ちこんだ。  天地丸大騒動   ——うわくちびるにほくろのある女中お吉  おどろいたのは、天地丸のみならず、まわりを取りまいていた舟である。 「あっ」  と、息をのんだとき、天地丸では世之助がすばやく着物をぬぎすてると、ふんどしいっぽんの丸裸。  さっと川へ飛びこんだ。  それを見ると、きんちゃくの辰、これまた着物をぬぎすてて、水のなかへとびこんだ。  辰は泳ぎに自信がある。それを見送って、佐七は舟を天地丸のそばへ着けさせると、ひらりとそれに飛びうつって、 「ごめんなさいまし。どうかいたしましたか」  しかし、だれもそのことばが耳にはいらないほどあわてている。  むりもないのである。  船底に穴があいて、どんどん水が吹きあげている。  いっぽう、花嫁は川へおちて、花婿がそのあとからとびこんだのだ。  天地丸はそれこそ天地がひっくりかえるような大騒ぎ。 「豆六、辰の着物をかせ」 「おっとしょ」  佐七はすばやく辰の着物をまるめて、船底の穴に栓《せん》をすると、 「こっちはだいじょうぶです。なに、すこしぐらい水がしみこんだところで、むやみに沈むようなことはありません。それより、立っていなすっちゃあぶない。みなさん、おすわりなさいまし」  佐七の声に、一同ははじめて気がついたように腰をおちつけたが、さて、そうなると、気がかりなのは、水におちた花嫁と、そのあとからとびこんだ花婿のこと。 「いけねえ、いけねえ、そういっぽうへ集まっちゃいけねえ。もし、お若いかた、おまえさんはこの栓をおさえていてください。それから、ご隠居さんもお女中も、こっちへおすわりなすって」  こういうときは、身分の高下も貧富の差もない。おちついているやつが勝ちである。  みんな佐七にいわれたとおりの位置についた。  佐七はふなべりから身をのりだして、水の面をみていたが、やがて浮かびあがったのは世之助である。  鯨が潮をふくように、ふうっと息をふくと、そのまままたもぐりこんでいく。  いれちがいに浮かびあがったのは辰である。 「どうした、辰、みえねえか」 「親分、いけねえ、花火がポンポンあがりゃアがるんで、目がくらんで見えねえんです」 「しもてのほうを捜してみろ」 「合点です」  世之助と辰はかわるがわる浮かんではもぐり、もぐっては浮かんでさがしていたが、花嫁の姿はどうしてもみつからなかった。  辰もいうとおり、あちこちで打ちあげる花火の明滅が、かえって視界をさまたげるうえに、騒ぎをききつたえて、わっと舟が集まってきたのがいけなかった。  なんどめかに浮かびあがった世之助は、くちびるを土色にして、ふなべりにつかまりながら、 「おっかさん……お夕は……お夕は……」  絶望のために顔がゆがんで、目のなかには沈痛な色がただよっている。 「世之助!」 「おにいさま!」  お甲とお美代の血を吐くような叫び声。  清次郎は青くなってふるえながら、必死になって船底の栓をおさえている。 「とにかく、もういちど捜してきます」  世之助はまたもぐりこんだが、しばらくすると辰が頭を出して、 「親分、いけねえ、これだけ捜しても見つからねえからは、もうこのへんにゃいませんぜ」  辰もくちびるを土色にしている。 「しかたがねえ、おまえ、もうあがれ」 「へえ」  辰がふなべりからかきのぼると、 「ご苦労さまでした。さぞお冷えになったでございましょう」  さすがは大家のご隠居だけあって、お甲はこんなときにも、取り乱したところはなかった。 「おっ、寒っ、親分、あっしの着物は……」 「あっ、いけねえ、おまえの着物はあのとおり、船底の栓にしちまった」 「親分、そ、そりゃあんまり殺生《せっしょう》な、おお、寒っ」  辰がふるえあがっているところへ、世之助もぐったりと、ふなべりからはいのぼってきた。 「世之助、ともかく、いちおう諏訪町《すわちょう》へかえりましょう。それからひとにたのんで川筋を捜させましょう」 「はい」  世之助はぐったりと、頭をかかえてうなだれた。  身のたけ五尺七、八寸、きりりと引きしまった肉づきが、ほれぼれするほど美しい。  やがて、豆六ものりうつって、それからまもなく天地丸が横付けになったのは、諏訪町|河岸《がし》の桟橋《さんばし》である。  舟からあがったお甲は、ひとを呼んで川上《かじょう》捜索を命じると、佐七のほうをふりかえり、 「いろいろお世話になりました。ちょっとお寄りくださいまし」 「そうですか。それじゃ、おことばに甘えて……」  三人が案内されたのは、諏訪町河岸にある大名の下屋敷のようなりっぱな構え。 「こちらは……?」 「はい、わたしどもの寮でございます」  その寮のひと間におちつくと、辰はやっと男物の着物と、寒さしのぎの酒にありついた。  豆六もこのときとばかりにお相伴。 「ときに、ご隠居さん、とんだことができましたが、いったいどうしたんでございます」  お甲はじっと佐七の風体を見て、 「町方のかたでございますね」 「へえ、あっしゃお玉が池の佐七といって、お上の御用をつとめているもので……」  佐七ときいて、お甲をはじめ一同は、はっと顔を見合わせる。世之助も衣服をあらためていたが、寒さしのぎの酒も、かれの顔色にすこしの赤みもそえなかった。 「お名まえはうけたまわっております。佐七どの、わたしにも今夜のことはがてんがまいりませぬ。だしぬけに水がふきあげ、それにおどろいているうちに、お夕が川に落ちて……」 「それをわたしも見ておりましたが、おかしいのは船底の穴で、ありゃだれかがくりぬいて、なにかで栓がしてあったのでございますね」  お甲をはじめ一同は、ぎょっとしたように顔見合わせたが、そのときだった。はいってきた女中がお甲になにか耳打ちすると、 「なに、お吉のすがたがみえないって?」 「はい、夕がたから、気分がわるいといって引きこもっておりましたが、それきりどこへいったか、姿がみえませんので……」 「あの、もしお吉さんというのは……?」  佐七がたずねると、 「はい、さきほど水におちた嫁の里からついてきた女中でございます」 「ひょっとすると、そのお吉さんというのは、上くちびるにほくろのあるお女中では……?」 「それを、どうしておまえさんが……」  それをきくと、佐七をはじめ辰と豆六、おもわずはっと顔見合わせた。  むざん首なし死体   ——お夕さまは妊娠三カ月か五カ月か 「親分、いけねえ、海坊主の茂平次が、よこからちょっかいを出しゃアがった」  その翌日の夕刻のこと、朝から隅田川の川筋を、亀屋のものにまじって捜索していたきんちゃくの辰が、目の色かえてかえってきた。 「鳥越《とりごえ》のがちょっかい出したって?」 「へえ、どうやらあいつもかわら版を読んでいて、世之助とお美代に目をつけているらしいんです。親分、うっかりしてると、とんびに油揚げさらわれるようなはめになりますぜ」  海坊主の茂平次というのは、浅草鳥越にすむ御用聞きで、佐七より二十も年上の先輩だが、とかくやることがあくどいから、げじげじのようにきらわれている。色が黒くて、大あばたのあるところから、ひとよんで海坊主の茂平次。  これまでにも佐七とたびたび、鞘当《さやあ》てを演じたことがある。  佐七は、しかし、こともなげに笑って、 「いいじゃねえか、だれの手にあげられようとも、下手人さえつかまればいいんだ、それより、お夕さんの死体はあがったか」 「それがまだなんです。ひょっとすると、川底の杭《くい》にでもひっかかっているんじゃないかというんですが、どっちみち命はありませんね」  佐七はくらい顔をしてうなずいた。 「ところで、お夕の里からついてきた、お吉という女中はどうだ、まだ見つからねえか」 「へえ、これもまだなんで。お吉はとても主人おもいの忠義者だったということですから、みんなふしぎがっているんです」 「おかしいな。おれにゃアそれが気にかかる。きのうお粂にことづてをしたところをみれば、ゆうべ川のうえで、なにか起こりそうだということは、知っていたのにちがいねえ。それをそのまま捨ておいて、姿をかくすというのがわからない」  佐七はだまって思案をしていたが、やがて思い出したようにひざをすすめると、 「ところで、亀屋の内幕だが、おまえ、それを調べてきたろうな」 「そこに抜かりはありませんや。親分、まちがいなし。ぼらの腹から出た手紙は、世之助がお美代に書いたものにちがいありませんぜ」  辰の調べてきたところによると、こうである。  ひとのふところはわからないもので、亀屋のような大家でも、一昨年なくなった世之助のおやじの道楽のために、身上がすっかり左前になっていたという。  それを救うためにおこなわれたのが、世之助とお夕さまとの婚礼で、お夕さまは三千両という持参金をもってきたそうなのである。 「三千両……? そいつは大きいな。お夕さまの里というのはどちらだえ」 「なんでも甲州のほうの、これまた名字帯刀をゆるされた大名主だそうで、亀屋とはとおい昔の血続きになっているんですね。ところが、そのお夕さまというのがとんだ化け物で……」「化け物というと……?」  お夕さまはおさないときに顔に大やけどをして、顔半面にみるもむざんな赤あざのひっつれがあるというのである。 「お夕さまはそれを恥じて、年ごろになったじぶんから、いつもああして、ずきんで顔をかくしているんですが、亀屋のほうでもそんなことは百も承知、二百も合点、ほしいのは嫁じゃアない、金ですから、とうとうこれをめとったので、それが去年の暮れのことだそうです」 「それで、お夕さまは懐妊してたんだな」 「へえ、やはり五カ月だそうです。それでとかく気分がすぐれねえもんだから、三カ月ほどまえからお吉をつけて、諏訪町の寮へ出養生にやったんですね。もっとも、世之助は三日にあげず、本宅から見舞いにいって、泊まったりなんかしてたそうですがね」 「世之助もそうとう気は使っていたんだな」 「そりゃそうでしょう。持参金のてまえもありますからな。ゆうべなんかも、そのお夕さまを慰めるという名目で、舟遊びにひっぱりだしたんですがね」  そのことなら、佐七もゆうべ、お甲からきいていた。 「ところで、お美代だが、あれはどういうんだ」 「お美代は分家の娘ですが、その分家というのがつぶれてしまって、お美代は幼いころから、世之助といっしょに、お甲の手もとでそだてられたんです」 「御殿勤めをしてたというじゃないか」 「へえ、十七のとしに酒井様の奥勤めにあがって、三年勤めてことしの春、お暇をもらってさがってきたんですがね。なに、御殿勤めだって、年にいちどの宿下がりはある。そんなとき世之助とどんなことがあったかしれたもんじゃねえ。世之助はあんないい男だから、お美代もすえは夫婦と楽しんでいたにちがいねえが、お暇をもらってくると、男にゃ化け物のような女房がついている。男は男で、目の前にお美代のようなべっぴんがぶらついてちゃ、化け物のような女房にいやけがさすのもむりはありませんや。親分、こりゃやっぱり世之助が天地丸に穴をあけて、騒ぎにまぎれてお夕を突きおとしたにちがいありませんぜ。だからさ、海坊主のやつに出しぬかれねえうちに、早いとこあげちまいましょうよ」 「そうもいかねえよ。死骸があがらねえうちは、お夕が死んだとはいいきれねえ」  佐七はなんとなくしりが重いかんじだったが、そこへ糸がきれたやっこだこのように、きりきり舞いをしながら、とびこんできたのは豆六だ。 「なんや、なんや、親分、兄いものんきにお茶なんかのんでる場合やおまへんがな。お夕の死骸があがりましたぜ」 「なに、お夕の死骸があがったと」 「へえ、そればっかりやおまへん。なんでも、死骸があがったときいて、海坊主の茂平次が亀屋へ乗りこんだちゅう話や」 「そんなことはどうでもいい。豆六、それより死骸はどこだ」  その死体は永代橋からすこししもての、葦《あし》の浮き州にながれよっていたが、おくればせにかけつけてきた佐七は、ひと目それを見ると、おもわずぞっと顔をそむけた。  むりもない。  その死体には首がなかった。  ひとに切り落とされたのか、猛魚にくいちぎられたのか、見るもむざんなていたらくだった。 「こいつは……しかし、こりゃたしかに亀屋のご新造にちがいないんですね」  立ち会いの町役人にたずねると、 「亀屋のものの話によると、まちがいないということです。昨夜、舟遊びのときに着ていた衣装だそうで……」  佐七はきものの着こなしを調べてみたが、べつにふしぜんなところもなく、殺されてから着せかえられたふうもなかった。 「ときに、ご新造は妊娠五カ月とか聞いておりましたが……」 「いや、それは月をかぞえちがったんでしょう。医者のいうのに、妊娠していることはいるが、まだ三カ月だというんですがね」  佐七はなにかしら、ぎょっとしたように目をすぼめ、それからだまって考えこんだ。  証拠は錦《にしき》の紙入れ   ——お美代はわっと泣きくずれた  ご検視がすんだのち、お夕さまの首なし死体は、諏訪町河岸の亀屋の寮へひきとられた。  そして、そこから火葬場へおくられて荼毘《だび》に付されたが、それから四日め、甲州の里から、お夕さまの実兄、印籠屋伝右衛門《いんろうやでんえもん》が出てくるのをまって、日本橋室町の亀屋の本宅から、本葬が出されることになった。  亀屋の菩提寺《ぼだいじ》は、下谷広徳寺前の了沢《りょうたく》寺である。  亀屋では世間体をはばかって、お葬いもできるだけひかえめにするつもりだったが、なにしろ事件が事件だから、やじうま気分の会葬者もおおく、了沢寺の境内は意外な混雑をていした。  佐七もあの夜の縁があるから、辰や豆六をひきつれて、お葬いに顔を出したが、本堂の回向もすみ、別室でお膳《ぜん》がでるときになって、亀屋の隠居のお甲から、佐七たち三人にも、ぜひ箸《はし》をつけていってほしいというあいさつがあった。  佐七もいったんはことわったが、たってとのことにいなみもなりかね、それではと末席につらなって、精進料理のごちそうになっているところへ、乗りこんできたのが海坊主の茂平次。 「こんなところで失礼ですが、だんなにちょっと、お顔をかしていただきたいんでございますが……」  なにしろ、あいてが江戸でも名代の大町人だから、さすがに茂平次も、いきなり十手を振りまわすようなことはしなかったが、色のくろい大あばた、海坊主のあだ名にはじぬ憎体面《にくていづら》をみると、上座にいた世之助をはじめ、お甲やお美代も、さっと顔色がかわった。 「はい、あのわたくしになにかご用でも……」 「へえ、ちょっと別室までおいでねがいてえんで。いえ、けっしてお手間はとらせません。それから、こちらにいらっしゃるお嬢さまにもぜひ……」 「はい、わたくしにも……」  お美代が、くちびるをふるわせるのを、じろりとみつめながら、 「へえ、もう、ほんのちょっとでございます。ぜひともおまえさんに見ていただきたいものがございますんで……」  お美代は救いをもとめるように、あたりを見まわしたが、だれも口をきくものはない。  お甲や伝右衛門をはじめとして、親戚《しんせき》一同、ただ不安そうに顔を見合わせるばかり。  世之助の腹違いの弟清次郎は、顔もあがらず、ただわなわなとふるえている。  と、そのとき、上座からつと立ちあがったのは世之助である。 「お美代さん、親分がああおっしゃるから、ちょっとむこうへまいりましょう。なあに、なにも心配することはありゃアしないよ」 「はい……」 「それではみなさま、ちょっと失礼いたします。すぐかえってまいりますから」  世之助とお美代が、茂平次のあとについて出ていくうしろ姿を見送って、上座のほうから母のお甲が、佐七にむかって拝むような目づかいである。  佐七はだまって立ちあがった。 「辰、豆六、おまえたちはここにいろ、おれはちょっといってみる」  茂平次が世之助とお美代をつれこんだのは、ひとっけのない庫裡《くり》のひと間、そこへあとから、だまってはいってきた佐七のすがたをみると、海坊主の茂平次め、目を三角にしてあわをふいた。 「おや、佐七、てめえはどうしてこんなところに……」 「鳥越の、まあいいじゃねえか。それより、おまえさんはこのおふたりに、どんな用事がおあんなさるんだ」 「佐七、いらざる口出しはよしてくれ。おれはこのおふたりに、ちょっと聞きてえことがあるんだ。じゃまだてすると承知しねえぞ」 「なにもじゃまだてしようたアいいませんよ。ききてえことがあるならおききなせえ。あっしもここできかせてもらいますよ」 「ちっ、かってにしやアがれ」  どっかとその場にあぐらをかく佐七のすがたをしり目にかけて、海坊主の茂平次は、世之助とお美代のほうへむきなおった。 「もし、おふたりさん、おまえさんがたにききてえというのは、ほかでもねえ、これに見おぼえはねえか」  茂平次がとりだしたのは、つづれの錦《にしき》でこしらえた女持ちの紙入れである。長く水につかっていたのか、かなりよごれていたんでいる。  お美代ははっと顔をそむけた。  茂平次はそれを見ると、にったり笑って、 「あっはっは、さては見おぼえがあるとみえるな。お美代さん、これはおまえの紙入れだね」 「はい、あの、それは……」 「おまえさん、これをいったいどこでなくしなすった」 「はい、あの、いつか大森の海岸へ、潮干狩りにまいりましたとき、途中の舟で海のなかへ……」 「それにちげえねえな」 「はい、あの、ちがいございません」  茂平次はとくいそうに佐七を見ながら、 「ところが、お美代さん、この紙入れからこんな手紙が出てきたんだが、おまえまさか、これを知らぬとはいうめえな」  茂平次がとり出したのは、ぼろぼろになった手紙である。 「これ、みねえ、手紙のあて名はお○代どの、あいにく一字欠けているが、おまえの紙入れから出てきたからにゃ、お○代はお美代にちがいねえ。してみると手紙の書きての○之助というのは、そこにいらっしゃる世之助さん、お美代さん、それにちがいねえだろうな」 「いいえ、知りませぬ。存じませぬ。わたしはそのようなおそろしい手紙を、おにいさまからいただいたおぼえはございませぬ」 「なに、おそろしい手紙……? おまえ読みもしねえで、この手紙におそろしいことが書いてあると、どうして知っているんだ」 「はい、あの、それは……?」  お美代はわっと泣き伏したが、そのとき、よこから口をだしたのは世之助である。 「親分さん、それはかようでございます」 「おお、世之助さん、おまえもなにか、いうことがあるならいってみろ」 「はい、あの、さきごろ世間でさわがれた読み売りのかわら版。あれを読んだときのわたくしどものおどろき。○之助といい、お○代といい、また化け物のような女房といい、なにやらわたくしどもの身のうえに符節をあわすようでございます。しかし、わたくしどもとしては、身におぼえのないことゆえ、気になりながらも、忘れるようにしておりましたが、すると……」 「すると、どうした」 「はい、あのお月見の夜の災難、いよいよかわら版のとおりになりましたので、世間のおもわく、とほうにくれていたところで……」  茂平次はせせら笑って、 「あっはっは、そりゃアこの手紙だけならばそういい抜けもできようが、そうはいかねえ。げんに手紙のはいっていたのが、お美代さんの紙入れだというからにゃ、こりゃおまえがお美代さんに書きおくった手紙にちがいねえ。おい、世之助、お美代、おいらといっしょに番所まできてくれ」  海坊主の茂平次が両手をのばして、お美代、世之助、ふたりの腕をとろうとするのを、 「鳥越の、ちょ、ちょっと待ってくんねえな」  わってはいったのは佐七である。  立ちぎく清次郎   ——お夕さまは水練が達者であった 「佐七、なんだ。じゃまをしねえという約束だったぜ」 「いや、じゃまをするわけじゃねえが、お美代さんにちょっとききてえことがあるんだ。もし、お美代さん、おまえさん、この紙入れをおとしたのは、大森へ潮干狩りにいく途中だったといいなすったが、その潮干狩りというのは、いったいいつのことでした」 「はい、あの、春の大潮の日でございました」 「春の大潮といやアお彼岸の前後だが、そのとき紙入れをおとしたのを、だれか知ってるひとがありますかえ」 「はい、おなじ舟にのっていたひとはみなご存じでございます。あれあれ、あそこへお美代さんの落とした紙入れガ流れていくとおっしゃって……」 「おなじ舟に乗っていたひとというのは……」 「室町へんのだんな衆やご新造さま、お嬢さまがたでございます。総勢たしか五十人とやらで、五隻の舟をしたてて、隅田川からこぎだしたのです。わたしは御殿奉公から、さがったばかりのじぶんでしたが、お夕さまがぜひいっしょにと、お誘いくださいましたので……」 「お宅からはほかにどなたが……」 「ここにいらっしゃるおにいさま、それから清次郎さまも、あとの舟にのっておいでになりました」 「おまえさん、これとおなじ紙入れを、ほかにお持ちでございますか」 「いえ、これは御殿奉公をしているころ、おかみからちょうだいしたお能の衣装の残りぎれでつくったもので、これよりほかにございません」  佐七は、にっこり茂平次のほうへふりかえり、 「鳥越の、お聞きのとおりだ。春の大潮の潮干狩りに、お美代さんとおなじ舟にのっていたご連中に、紙入れを見せてきくがいい。大店《おおだな》のだんな衆やご新造さまが、まさかうそはおっしゃいますまい。それに、これはめずらしい紙入れだから、みんなきっとおぼえていますぜ」 「佐七、それがどうした」 「鳥越の、まあつもってもごらんなせえ。春の大潮から、このあいだ典山がぼらをつりあげた日まで、何日たってると思うんだ。そのとき紙入れに手紙がはいっていたとしたら、とっくの昔に溶けちまってまさあね」 「う、う、う、そ、それは……」  茂平次は理のとうぜんに目をしろくろ。 「しかし、げんにこの紙入れから手紙が出たという証人はたくさんあるぜ」 「だからさ、そこをなんとか考えなきゃアいけねえ。それにね、鳥越の、お夕さま殺しの下手人として、だれにしろ、ひとをふんじばるのはまだはようござんすぜ」 「どうして早い」 「おまえさん、首もねえのにあの死体を、お夕さまだとどうして知れる」  それをきくと、茂平次よりお美代や世之助のほうがおどろいた。 「でも、親分、あの死体はお夕の着物を……」 「だんな、着物というのはどうにでもなる。死体の身もとをたしかめるにゃア、顔をみるより手はございません。だから、首が出ねえうちは、あれをお夕さまときめてしまうわけにゃいきませんのさ」 「親分さん、それではお夕さまは、まだ生きているとおっしゃるのでございますか」  お美代はあっけにとられたまなざしである。 「いいえ、そうは申しません。あっしのいうのは、首がでねえうちは、あの死体をお夕さまときめてしまうわけにゃいかねえというんで。なあ、鳥越の、おまえこのおふたりをふんじばるのはいいが、あとでお夕さまがもし生きていたら、ずいぶん変なことになるだろうぜ」 「う、う、う、そ、そ、それは……」  茂平次は目をしろくろ、海坊主の本性たがわず、口からさかんにあわを吹いていたが、なるほど佐七のことばにも一理はある。  あいてがただの町人ならともかく、名字帯刀を許された由緒《ゆいしょ》ある家がらの当主、まかりまちがえば、引っ込みがつかなくなることぐらい、茂平次だってこころえている。 「佐七、よくもおれの仕事にけちをつけやアがったな、おぼえていろ」  と、それでも捨てぜりふだけはふてぶてしく、茂平次が出ていく反対側のふすまから、そっと顔を出したのは、お甲と仏の兄の伝右衛門。 「親分さん、ありがとうございました」  お甲が礼をのべるかたわらから、伝右衛門がまゆをひそめて、 「親分、いまむこうで聞いていたら、お夕が生きているかもしれないようにおっしゃったが、あれはほんとうでございますか」 「いや、あっしにもまだ、はっきりとしたことはいいかねます。とにかく、首が出ねえことにゃ……」 「じつは、わたくしどもも国のほうで、こんどの凶事をきいたときには、ちょっと不審に思ったのでございますが……」 「不審に思ったとは……?」 「女でこそあれ、お夕は水練がごく達者。隅田川のような流れのゆるい川で、おぼれるような女じゃなかったんです」  一同はおもわず顔を見合わせた。 「それじゃ、お夕さまは水練が……」 「はい、それですから、懐妊して五カ月というのがいけなかったんだろうと、国ではみんないってるんですが……」  佐七はふっと思いだしたように、世之助のほうへふりかえった。 「だんな、お夕さまが五カ月だったというのは、まちがいじゃないでしょうね」 「五カ月でしたよ。それがどうして……?」  お甲は不審顔である。 「ところがね、ご隠居さん、このあいだの首なしの死体は、まだ三カ月だったそうですよ」 「そ、そ、そんな……」  一同はぼうぜんとして目をみはったが、そのとき佐七がなに思ったのか、ふっとくちびるに指をあてた。  それから、いまお甲と伝右衛門が出てきたふすまのそばに忍びよると、いきなりがらりと開いたが、 「あっ」  そこに立ちすくんだのは清次郎である。 「清次郎さん、ここになにかご用でも……」 「はい、あの、ご親戚のかたがたがお待ちかねでございますから……」  清次郎の顔は、藍《あい》をなすったようにまっさおである。  舟から消えた男   ——そのお侍も川の中へとびこんだんで  それからまもなく了沢寺をでた佐七は、きんちゃくの辰をふりかえり、 「辰、おまえはここにのこって、清次郎というやつに気をつけろ。まっすぐ亀屋へかえりゃよし、ほかへまわるようならつけてみろ」 「へえ、あの清次郎がどうかしましたか」 「そういうわけじゃねえが、ぼらの腹から出た手紙にゃなんと書いてあった。毒をくらわばさらまで、あいつもいっそ、とあったじゃねえか」 「しかし、親分、それは世間で、お美代、世之助を下手人と気づかねえばあいのこと。いまじゃ、みんなしてあのふたりに目をつけているんですから、清次郎ひとり殺したところで、しかたがねえじゃアありませんか」 「なんでもいいから、おれのいうとおりにしろ」  と、辰をのこして、佐七は豆六とともに、広徳寺前から門跡前へ出る。 「親分、これからどっちへ」 「諏訪町河岸の亀屋の寮へいってみようよ」 「へえ、あの寮になにかおまっか」 「お吉という女中について、ちょっと聞きてえことがあるんだ」 「そうそう、亀屋のほうでも、お吉のゆくえはまだわかりまへんのか」 「かいもく見当がつかないらしい。伝右衛門の話によると、あれはとても忠義だから、お夕をおいて姿をくらますはずがねえ。それに、だいいち、いなかからお夕について去年はじめて江戸へ出てきた女だから、こちらに知り合いがあるはずはなし、いきどころもねえはずだというんだ」 「親分、ひょっとすると、お吉もどこかで殺されてんのんとちがいまっしゃろか」 「そういうことがねえともかぎらねえ。ところで、豆六、ここにおもしろい話があるんだ。お吉というのは幼いときから、お夕にかしづき、お夕がけいこごとなどするときは、いつもいっしょに習わされた。だから、琴なども、お夕におとらずじょうずにひくというんだ」 「親分、それがなんでおもしろおまんねん」 「あっはっは、豆六、てめえにゃわからねえか。わからなきゃいい」  佐七はわらって、それからあとは、豆六がなにを聞いてもとりあわなかったが、やがて、やってきたのは亀屋の寮。  お夕がいなくなってから、この寮はとざされて、年寄り夫婦が住んでいるだけ。  あのさわぎの夜、佐七はここへ立ちよったので、寮番夫婦もおぼえていた。 「とっつぁん、その後お吉からたよりはねえか」 「ああ、これはお玉が池の親分さん……はい、いっこうに……ご本宅のほうへもかえりませんか」 「あっちでも知らねえようだな。ときに、とっつぁん、お吉がお夕さまについて、ここへ移ってきたのはいつごろのことだえ」 「五月のはじめのことですから、いまから三カ月とちょっとまえですね」 「どうだ、とっつぁん、お吉にゃ情夫《おとこ》があったろう。ここへ忍んできやアしなかったか」 「と、とんでもない、親分」  おやじは目をまるくして、 「あの娘《こ》にかぎって、そんなことはございませんよ。それはいたってものがたい娘で、とても主人思いの忠義者でしたよ」 「お夕さまがこっちにいるあいだ、だれか若いものがここにいたかえ」 「いえ、男といってはわたしひとり、あとは女ばかりでしたよ」 「でも、だれか男が泊まっていったろう」 「いえ、もう、そんなことはけっしてございません。お夕さまも、だんなのてまえ、たとえお店の若いものでも、お泊めになるようなことはございませんでした。そりゃだんなは三日にあげずお泊りになりましたが……」  寮番のなにげないことばを聞いたせつな、佐七の頭にさっとひらめいたものがある。 「とっつぁん、ひょっとすると、だんなはお吉に手をつけていたんじゃねえか」  おやじはまた目をまるくした。 「と、とんでもない。親分、めったなことはおっしゃいますな。だんなは、それはそれはお夕さまをだいじにしておいででございました。それに、お吉はとても忠義者、お夕さまのご主人に、身をまかせるような女じゃございません。それに……」 「それに……なんだい。とっつぁん、かくしちゃいけねえ。なんでもいいからいってみろ」 「はい、それでは申し上げますが、お夕さまというかたが、ああいうお顔でございますから、それはひどいやきもちだそうで、もしだんなとお吉とのあいだに、そのようなことがございましたら、お吉は責めころされていたでしょう。ところが、お夕さまはあの日まで、お吉を妹のようにかわいがっていらっしゃいましたからねえ」  それからまもなく寮を出ると、豆六がふしぎそうに、 「親分、あんたはどうして、お吉に情夫《おとこ》があると思いなはんねん」 「なあに、ちょっとかまをかけてみたのよ。おっと、そうだ。ここまできたついでに、柳橋の舟徳へよってみようよ」  舟徳というのは、八月十五日の晩、佐七が舟を出してもらった船宿である。  その舟徳の店先へ顔を出すと、帳場にいたおかみが、 「あら、お玉が池の親分さん、ちょうどよいところでございました。銀次や、銀次はいないかえ。お玉が池の親分さんがおみえだよ。おまえこっちへきて、あの話をしないかえ」  のっけから、黄色いおかみの声をあびせられて、佐七は豆六と顔見合わせながら、 「おかみさん、なにかあったのかえ」 「はい、あの、ちょっと……銀次のやつったら、きょうまで黙っているもんだから、わたしゃアちっとも知らなかったんですよ。それがきょう、ほら、亀屋さんのご新造さんのお葬いがあったでしょう。それで思い出したのか、はじめてわたしに話すんです。それで、そんなことがあったのなら、親分のお耳に入れとかなきゃと、たったいま、話していたところなんですよ」 「へえ、親分、よくおみえでございました」  舟でも洗っていたのか、ぬれ手をふきながら出てきたのは、まだなまわかい船頭である。 「おお、銀次、おまえなにか、亀屋のご新造の一件について、知ってることがあるそうだな」 「へえ、親分、それがはたしてあの一件に、関係があるかどうかわかりませんが、ちょっと妙な話なんです」  八月十五日の晩、銀次はひとりの客をのせて、大川へこぎだした。  客というのは黒装束の羽織はかま、ずきんでおもてをつつんでいたので、人相年ごろはわからなかったが、小づくりな武士で、細身の大小をさしていた。  武士はほとんど口をきかず、持った扇子でいくさきをしめしたが、目的はどうやら亀屋の屋形船だったらしい。  その屋形船のほどちかくまでくると、武士は舟をとめさせて、おりから演奏されていた、世之助、お夕、お美代の三曲に聞きほれていたが、そのうちに起こったのがあの騒ぎ。 「あっしはそっちのほうに気をとられて、つい、お客さんのことを忘れていたんですが、そのうち、うしろのほうでかすかな水音がしたんで、びっくりしてふりかえると、お客さんの姿がみえねえんで」 「なんだ、その侍も水にとびこんだのか」 「へえ、そうなんで」 「衣類大小を身につけたままか」 「あっしがびっくりして駆けよったときにゃ、お客さんはもう、水にもぐっていたんですが、ちらと見たところじゃ、大小を背中に負うているようでしたね」 「それからどうした?」 「いえ、それっきりなんで。いつまで待っても、お客さんはかえってきやアしません。そのうちに、亀屋さんの屋形船も引きあげちまう。あっしゃ待ちぼけくってかえってきたんです」  佐七はあっけにとられた顔色で、まじまじと銀次の顔をみつめていた。  清次郎と講釈師   ——久米典山をつける黒装束の武士 「親分、妙なことがありますよ」  その晩、佐七と豆六がひとあしさきにお玉が池にかえって待っているところへ、あわただしくとびこんできたのはきんちゃくの辰。 「どうした、辰、清次郎の身のうえに、なにかまちがいでもあったのか」 「いえ、そういうわけじゃありませんが、あいつちっと臭うがすぜ」  佐七の命令で、辰が了沢寺の門前に張りこんでいると、まもなく亀屋の親戚が寺から出てきた。  いちどうは寺門前からかごにのって、上野の山下のほうへむかったが、ただひとつ、清次郎をのせたかごだけが、いちどうにわかれて、浅草門跡前のほうにむかった。  こいつはおもしろいと、辰がひそかにつけていくと、清次郎は菊屋橋のへんでかごからおりたが、みると服装がすっかりかわっている。  羽織はかまをぬぎすてて紋付きの着流し、おまけにずきんで顔をかくしている。  おやおや、それじゃ精進落としにどこかへしけこむつもりかな、それだとつけてもつまらないが、と、辰が小首をかしげていると、清次郎は田原町でかごをひろった。  ゆくさきは観音様の方角だから、お目当てはてっきり吉原、とにかく、こうなったら、おちつくさきをみとどけてやろうと、みえがくれにつけていくと、清次郎がかごからおりたのは雷門のまえである。 「おや、こいつはすこし見当がくるったか……と思いながら、それでもあとをつけていきやすと、親分、清次郎のやつ、どこへいったとお思うですえ」 「奥山の、久米典山の講釈場じゃねえのか」  辰と豆六は目をまるくした。 「親分、それをどうしてご存じで」 「まあ、いいからあとをつづけろ、それで、清次郎のやつ、典山に会ったのか」 「ところが、あいにくきょうは講釈場はやすみなんで、清次郎のやつそれをみると、すぐ引きかえして矢大臣門から馬道へ出ました」 「てめえもそれをつけたんだろうな」 「もちろん、つけていきましたよ。ところが、矢大臣門を出ようとすると、きんちゃく切りだ、きんちゃく切りだというさわぎなんです。これがあっしの悪いくせなんだが、そういうさわぎにぶつかると、つい気をとられて……」 「バカ野郎、それで清次郎を見うしなったのか」 「へえ、はっと気がつくとみえねえんで。しまったと思ったが、いきさきはだいたい見当がついてまさあ。山の宿の典山のすまいです。ところが、運の悪いときにゃしょうがねえもんで、あいにくすずめ色のたそがれどき、それにあのへんは路地がごたごたしてますからね。いちどきたきりじゃなかなかわからねえ。ずいぶん道にまよったあげく、やっと捜しあててみると、典山はるすなんです。となりで聞くと、ついいましがた、ずきんをかぶった男がきて、ふたりで出ていったようだというんです」 「辰」  佐七はジロリと顔をみて、 「てめえまさか、それで、どうもまことにすみませんと、かえってきたんじゃあるめえな」 「親分、見そこなっちゃいけねえ、見そこなっちゃ……これでもあっしゃ江戸一番とうたわれたお玉が池の親分の、一の子分といわれるにいさんだ。そんなへまはやりませんよ」 「えらいッ! さすがは兄いや。そんなら、あんた、ふたりのいくさきをつきとめはったんか」 「あたりめえよ。と、こういうと威勢がいいが、じつは運がよかったんです。となりのかかあと押し問答をしているところへ、かえってきたのがそこの亭主で、典山さんならいまさっき、花川戸の、松屋という小料理屋へはいる姿をみましたよ。はい、たしかにずきんをかぶったお連れさんとごいっしょでしたという話に、しめたとばかり松屋へとびこんだんです」 「ふむふむ、それからどうした」  佐七が目をほそめてひざを乗りだすと、辰はにわかにそっくりかえり、 「親分、見そこなっちゃいけませんぜ。見そこなっちゃ。あっしもきょうはつくづく思いましたね。おれもたいした顔になったもんだと。なんしろ、江戸じゅうの女で、あっしの顔をしらねえものはねえんですからね。だってさ、あっしがそっと松屋ののれんから顔をのぞけると、出てきた女が、いきなりあっしに取りすがり、あら、お玉が池のにいさん、うれしい……とはいわなかったがね」 「バカ野郎、むだをいわずとまっすぐ話せ」 「えっへっへ、ま、やきなはんな。さてと、さいわい知った女がおりましたので、そいつにいいふくめて、典山たちのとなり座敷へ案内させました。なにしろ、ふすまひとえだから、むこうの話が手にとるように……」 「聞こえたか」 「聞こえりゃアいいんですが、そうはいきませんや、むこうもあたりをはばかって、ひそひそ話。それに、話もおわりにちかくなっていたらしいんですが、それでもちょいちょい聞こえましたよ。典山の声でね、おれも首がなかったと聞いたときにゃ、ちょっとへんに思ったよというんです。すると、清次郎のやつが、それにお夕さまは五カ月だったはずだのに、死骸の女は三カ月だったそうですよ。典山の声で、なんだか薄っ気味がわるいなあ、清次郎、気をつけろ。それからまた、しばらくひそひそ話がつづきましたが、やがて、かえりじたくをはじめたらしく、典山の声で、とにかく、あんまりおれのところへこないほうがいいぞ。きょうはだれも、つけてこやアしなかったろうな。はい、だいじょうぶです。ところで、清次郎すこしおいてってくれ、ここんところ、おれゃすっかり手詰まりでな。典山がそういうと、それにたいして、親分、清次郎のやつがなんと答えたとおもいます。それを聞いたときにゃ、さすがのあっしも、おもわず声をたてるところでしたよ」 「いったい、なんといったんだ」 「おとっつぁん、きょうはこれだけで、かんべんしてください……」 「なに……」  佐七はおもわず、キセルを握りしめた。 「清次郎がそういったのか。典山にむかって、おとっつぁんといったのか」 「へえ、いいましたよ。まちがいございません。たしかにそういったんです」  佐七はしばらく、だまって考えこんでいたが、やがてしだいに微笑のかげが、男らしい口もとにひろがっていくと、 「よし、それでだいたいわかった。ところで、それからどうした」 「へえ、ふたりがかえりじたくをはじめたので、あっしゃひと足さきに松屋を出て、くらがりんなかで待っていたんです。ふたりは松屋を出ると、右と左にわかれました。あっしゃよっぽど典山のほうをつけてみようかと思ったんですが、おまえさんにいいつけられたのは、清次郎のことですから、そのまま清次郎をつけました。清次郎は室町の亀屋の本宅のすぐちかくにある先代の隠居所に、ばあやとふたりで住んでいるんですが、まっすぐそこへかえったんです。こんなことなら、典山のほうにすりゃアよかったと思いましたが……そうそう、その典山について、ちょっと妙なことがあるんです」 「妙なことって?」 「松屋のまえから清次郎をつけながら、しばらくいって、ひょいとふりかえると、そのとき、松屋から出てきた男が、ちょっとあとさきを見まわしたのち、典山のいったほうへいそぎあしでいくんです。それがね、典山のあとをつけていくみてえで……あっしの思いすごしかもしれませんがね」 「いったい、どんなやつだ」 「それがね、かなりあいだがありましたし、もう日が暮れて、まっくらでしたからね、はっきりしたことはわかりませんが、なんだかくろっぽい羽織はかまに、ずきんをかぶった侍のようでしたよ。がらは小づくりのようでしたね」  佐七ははっと、きょう舟徳で、銀次にきいた話を思い出した。お夕さまが川へ落ちたとき、銀次の舟からとびこんで、それきりかえってこなかった男……。 「辰、それにちがいねえか」 「さあ……いまもいうとおり、はっきりしたことはいえねえんですが、なんでも細身の大小をさしていたようでしたね」  佐七は無言のまま、すっくと、その場に立ちあがっていた。  ひと足違いなぞの侍   ——典山も清次郎も切られて死んで 「親分、親分、そんなにいそいで、いったい、どこへ行こうというんです」 「どこでもいいから、黙ってついてこい」  あれからすぐに、お玉が池をとびだした人形佐七、辰と豆六をひきつれて、元誓願寺前の通りから新し橋へ出て、向柳橋から、三味線堀、七軒町からどぶ店へ出て、菊屋橋をわたると田原町。雷門を横にみて、山の宿へたどりついたのは、もうかれこれ四つ半(十一時)ごろ。  典山のうちをのぞくとるすである。となりで聞くと、宵《よい》に出たきり帰らないという。どうやら松屋を出たきり、うちへはかえらなかったらしいのである。  佐七はそれを聞くと、はっと色をうしなった。 「辰、豆六、松屋からここへくるまでの、辻《つじ》から路地を、かたっぱしからさがしてみろ」 「親分、なにか典山の身にまちがいでも……」 「なんでもいいから、おれのいうとおりにしろ」 「おっと、合点です」  さいわい空に月があるので、あたりはそれほど暗くはない。花川戸から山の宿だから、みちのりもごくわずか。  三人は辻から辻、路地から路地へとさがしたが、べつにかわったことも見当たらない。 「それほど遠くまで、おびきだしたとは思えねえが……おっ、そうだ、辰、豆六、河岸《かし》っぷちへまわってみよう」  河岸っぷちに出ると、月の光はいよいよ明らかである。  隅田川の水が満々とふくれあがって、対岸は水戸《みと》の下屋敷、長命寺から三めぐり稲荷《いなり》へかけて、森がくろぐろとつづいている。  佐七と辰と豆六は、目をさらにしてうろうろきょろきょろ、河岸っぷちをあるいていたが、ふいに豆六がきゃっと叫んでとびのいた。 「豆六、ど、どうした」 「親分、みなはれ、ここんところにどっぷり血が……」  みれば、なるほど土のうえに、蘇芳汁《すおうじる》をたたきつけたように、血が散っている。  そして、なにかをひきずったように、血のあとが土手っぷちまでつづいていた。 「辰、豆六、川のなかをさがしてみろ。どこかそこらに死骸がひっかかってやアしねえか」  三人は土手のうえからちょうちんをふりかざして、下流のほうへおりていったが、そこから十間もいかぬうちに、 「あっ、親分、あそこにひとらしいものが……」  みればみるほど、くずれた石垣《いしがき》と棒っ杭《くい》のあいだに、人間らしいものがひっかかっている。 「辰、豆六、ご苦労だが、ひとつあいつをひきあげてくれ」 「合点です」  ふたりはじゃぶじゃぶ、水のなかへはいっていったが、まもなく死体をひきあげてきた。  ちょうちんの灯《ひ》でその顔をあらためてみて、 「お、親分、こ、これは典山……」 「ふむ、みごとに切られていやアがる」  典山は右の肩から左へかけて、ざっくり袈裟《けさ》切りに切りおとされているのである。 「親分、それじゃさっきの覆面の侍が……」 「ふむ、それにちがいねえが、あいつにこんなすごい腕があるとは知らなかった」 「あいつって、いったいだれです」 「だれでもいい。おい、豆六、町役人を呼んでこい。おいらにゃアまだ用事がある。ここでぐずぐずしているわけにゃアいかねえんだ」 「おっとしょ」  豆六が町役人を呼んでくると、手短にわけを話し、あとは万事まかせておいて、 「おい、辰、豆六、いこう」 「いこうって、親分、どちらへ……?」 「どちらでもいい。ぐずぐずしていると手おくれになるぜ。いや、もうあとの祭りかもしれねえ。辰、豆六、いそげ!」  三人は月夜の道をひたはしり、犬がほえつこうが、番屋から番太が六尺棒を持ってとび出そうが、いさいかまわず走りにはしりつづけたが、それから小半刻《こはんとき》ほどのちのこと。  日本橋室町一丁目、亀屋の隠居所の裏木戸から、そっとぬけ出した影がある。  月はすでに西におちて、さっきからみると、よほど小暗くなっているが、それでもくろい羽織はかまに細身の大小、黒ずきんでおもてをつつんだ、小づくりの武士であることはみてとれる。  侍はあたりに気をくばりながら、うしろ手にそっと木戸をしめると、まるで血ぶるいでもするように、はげしく身をふるわせた。  それからなおもあたりに気をくばりつつ、まるで黒いかげろうのように、蹌踉《そうろう》としたあしどりで、日本橋の通りへ出たが、そこへ駆けつけてきたのが、佐七をはじめ辰と豆六。 「やっ!」  四人はいっしゅん、棒をのんだように立ちすくんで、たがいににらみあっていたが、つぎのしゅんかん、侍は飛鳥のように身をひるがえして、高砂《たかさご》新道へかけこんだ。 「それ、辰、豆六!」 「合点です」  駆け出すふたりのうしろから、 「あいては手ごわいから気をつけろ。それから、つかまえても、ひとに顔を見せるな」  それだけどなっておいて、亀屋の隠居所へくると、さっきの侍がしめそこなったのか、裏木戸がすこしあいている。 「ああ、もういけねえ」  佐七はほっと熱いいきをはき出すと、木戸のなかへはいっていったが、すぐまた出てきたところへ、夜まわりの番太がやってきた。  佐七の姿を見て、ぎょっと立ちすくむのを、 「とっつぁん、怪しいものじゃねえ。おら、お玉が池の佐七だ。おまえこれから亀屋さんへいって、だんなと……おお、そうだ、甲州からおみえになっていらっしゃるお客人に、ちょっとお出向きくださいとつたえてくれ」 「親分、なにがあったんですか。さっきなんだか人声がしましたが……」 「なんでもいいから早くいけ」 「へっ」  知らせによって、世之助と伝右衛門、お甲とお美代が、とるものもとりあえず駆けつけてくると、佐七は清次郎のまくらもとにすわっていた。 「親分、清次郎がどうかしましたか」  佐七はだまって掛けぶとんをまくりあげたが、そのとたん、四人の顔がまっさおになった。  清次郎は寝ているところを突かれたとみえて、もののみごとに胸もとをえぐられている。 「ばあさんもあっちでやられてます。かわいそうに、ばあさんに罪はねえものを、きっと下手人の顔をみたんでしょうねえ」 「親分さん、そ、そして、その下手人というのは」  お甲がくちびるをふるわせる。 「いま、辰と豆六が追っかけてます。ひとあしちがいでこんなことになって……ところで、ご隠居さんにお尋ねしますが、この清次郎さんですがね、ご先代のおたねだということに、すこしの疑いもございませんでしたか」  お甲はびっくりしたように、佐七の顔を見なおしたが、やがていくらか青ざめて、 「どういうわけで、そういうお尋ねがあるのか存じませんが、もうこれもなくなったのですから、申し上げてもさしつかえございますまい。これの母はお藤《ふじ》といって、もと、柳橋で芸者をしていたものでございます。それを先代がひかせて、外へかこっておきましたが、いろいろいかがわしい行跡もあり、これがうまれたときも、いまわしい風評がございました。しかし、亀屋ほどのうちでとるに足らぬうわさを種に、これのうまれを疑うわけにはまいりませぬ。それでまあ、先代のたねということにしてうちへ引きとり、そのかわりお藤にはひまを出しました」 「そして、その後、お藤という女は……」 「うわさによると、なんでも、久米典山という辻講釈師といっしょになったが、数年あとに、なくなったときいております」 「いや、それで、なにもかもわかりました」  佐七がうなずいたとき、辰と豆六が若いものにてつだわせて、戸板にのせた黒装束の侍をかつぎこんできた。  哀れ化け物お夕さま   ——お夕はわたしを信用できなかったのか 「親分、いけねえ、折り重なってふんじばろうとしたところが、こいつ、舌をかみきって……」 「死んだのか」 「へえ」 「いや、それもしかたがねえが、おまえたち、このひとの顔を、だれにも見せやしなかったろうな」 「へえ、親分のいいつけやで、わてらもまだ見てえしまへん」 「そうか、よし」  てつだいの若者たちをひきとらせると、佐七は伝右衛門をふりかえった。 「だんな、そのずきんをとって顔をごらんなさいまし」  伝右衛門はぎょっとしたように、佐七の顔をにらんでいたが、やがておそるおそるくせ者のずきんに手をかける。ずきんがすっかりとれたとき、一同はいきをのみ、お美代はわっと泣き伏した。  まぎれもなくそれは、顔半面焼けただれた哀れなお夕さまだった。  しばらく、一同は石になったように押しだまっていたが、やがて、伝右衛門が世にも悲痛な声をあげた。 「親分、お夕は……お夕は……どうして、こんなことをしでかしたんです」 「それはみな、あのかわら版からでした。ご隠居さん、清次郎さんはちかごろなにか、だんなやお美代さんに、ふくむところがありませんでしたか」 「はい、あの、あれがお美代におもいをかけて、嫁にほしいとしきりにせがみましたが、お美代はもとより、わたしもなんとなくあの子が信用できなかったものですから……」 「わかりました。それで清次郎は、あなたがたに復讐しようとしたんです。それには久米典山という屈強の軍師がついています。典山は清次郎が潮干狩りのときひろっておいたお美代さんの紙入れをたねにあんな筋をかいたんです。典山はそのなかへ、ああいうにせ手紙をこしらえ、紙入れのなかに入れておいて、ぼらの腹をかっさばくとき、いかにもそこから出てきたようにとりだしたんです。そして、それをかわら版にして、江戸じゅうに触れまわさせたんです」 「なんのために、そんなことを……」 「むろん、お夕さまの嫉妬《しっと》と疑いをあおるためでした。お夕さまは、まんまとその手にのったんです。だんな、お夕さまはたいそう悋気《りんき》ぶかかったそうですね」  伝右衛門はくらい顔をしてうなずくと、 「あれがお夕の欠点でした。いつかそのために、身をあやまりはしないかと案じていたんです」  佐七がうなずいて、 「おきのどくなひとでしたね、あっしゃお夕さまをにくむ気にはなれません。こちらさまの事情を知っているものが、あのかわら版を読めば、だれだって疑いたくなります。お夕さまもあれを読んで、嫉妬と怒りに身をふるわせたが、そこへ舟遊びのさそいがあったので、てっきりこんやだと推量して、お吉をじぶんの身代わりにたて、じぶんは男装でべつの舟から、屋形船を見張っていたんです」 「それでは、あのときお夕だと思ったのは、お吉だったんですか」 「そうですよ」 「そして、あの船をくりぬいたのは……?」 「おそらく清次郎でしょう、清次郎はべつに、だれを殺そうとしたのでもないが、そうしていよいよお夕さまの疑いをあおりたかったんです」 「憎いやつ」  お甲の歯ぎしりをするような声である。 「ほんとにそのとおりでございます。さて、ああいうさわぎになって、お吉が水におちたので、泳ぎのたっしゃなお夕さまは、それを助けようとして飛びこんだんだ。そして、おそらく、どこかへ助けあげたのでしょうが、そのときには、お吉はすでにこと切れていた。そこで、その首をきりおとして、死体を川へ流したのです」 「まあ、どうして、そんな恐ろしいことを……」 「つまり、じぶんは死んだものになって、だんなやお美代さんに復讐しようとしたんですね」 「まあ、恐ろしい」  お美代はまた泣きくずれる。 「お夕さまもそれまでは、よもやよもやと思っていたが、あの舟遊びのさわぎをみれば、かわら版の手紙を信用せずにはいられなくなりました。そこで、じぶんは死んだものになり、おふたりをつけねらっていたのですが、そのまえに、ぼらをつりあげた本人にあって、手紙をみせてもらおうと思ったのでしょう。お夕さまはおそらく版元で、それが久米典山であることを聞いたのでしょう。そこで典山に会って話をしようと、時期をうかがっているうちに、こよい、典山と清次郎が密会するところをみつけた。そして、ふたりの話を立ち聞きして、はじめてじぶんがあのふたりの悪だくみにのせられていたことを知ったのでしょう。そのときのお夕さまのおどろき、怒り、後悔、レ目にみえるようではございませんか。お夕さまは怒りのあまり、典山を殺し、清次郎を殺し、おそらくじぶんもどこかで自害するつもりだったのではございますまいか」  そのとき、世之助が思い出したようにまゆをひそめて、 「しかし、親分、あの首なし死体はみごもっていたそうじゃありませんか。お吉はぜったいに、そんなふしだらな女ではございませんが」  その世之助の目を、佐七はじっと見かえして、 「だんな、これはほんのあっしの当て推量だから、お心当たりがなかったら、お聞きながしてくださいまし、お夕さまがあの寮へおうつりになったのは、みごもってふた月、つわりのいちばんひどいときです。せっかくだんながおみえになっても、おあいてがつとまりかねる夜もあったでございましょう。しかし、お夕さまはそのままだんなをおかえししたくなかった。なぜといって、おうちにはお美代さんというきれいなかたがいらっしゃる。そういう晩がたびかさなって、閨寂《ねやさび》しさのあまり、もしだんなのお心が、お美代さんにかたむいては……と、そこで忠義者のお吉を説きふせ、じぶんのかわりにお伽《とぎ》をさせたのではございますまいか。むろん、だんなにはさとられぬようにして……」  世之助は目玉がとび出すほど、大きく目をみはっていたが、やがて満面火がついたようにまっかになった。 「だんな、お心当たりがございますか……」 「はい、あの……そういえば、二度か三度……へんだと思ったことが……しかし、まさか、そんな……それに、くらがりのことだし……お夕……お夕……おまえはそんなに、わたしを信用できなかったのか」  清次郎の死骸をとりかたづけたとき、思いがけなく寝床のしたから、お夕さまの書き置きがでてきた。  それにはじぶんのよしない嫉妬と疑いを、世之助とお美代にこまごまとわびたのち、お美代さまこそだんなさまとにあいの夫婦、ぜひすえながく添いとげてください、もし世間へのてまえ、わたしへの気がねから、おふたりがそれをためらったら、かえっておうらみいたしますと、綿々として書きつづってあったが、世のひとそれをききつたえて、哀れなお夕さまのために、涙にそでをしぼらぬものはなかったという。 [#地付き](完) ◆人形佐七捕物帳◆(巻七) 横溝正史作 二〇〇五年六月十日